100 love letters

 前略
 あなたと会わなくなって半年以上たちますが、
 不思議なもので、あんなに会いたいと思っていたあなたに、
 こうやって手紙を書くことで、僕は満足しているようです。
 極端な話、あなたがもしこの手紙を読んでいなくても、
 構わないのだと思います。
 自分勝手だと、あなたは怒るでしょうか。
 できれば、仕方のないやつだと、
 笑って許していただけたら嬉しいです。
 こちらはもうすぐ春の訪れる予感がします。
 春がくるたび、僕はいつも皆さんと過ごした日々を思い出します。
 しあわせだった思いでを、未だ追いかけているみたいです。
 それがほんとうのしあわせでないことは分かっているのですが。
 あなたはどうですか? しあわせの正体を、知っていますか?


    22

 意味のない問いかけだと、キョンは思った。古泉は返事が来ないことに甘えて、自分でも答えられないような質問を、わざと訊いてくるのだ。なんて勝手な話だろう。そちらのほうがよほど自分勝手だ。
 便せん一枚だけの簡素な手紙は、運ばれる途中で濡れてしまったのか、ところどころインクがにじんでいた。窓の外に視線を動かすと、カーテン越しに木々のかげが揺れている。窓を開けると、途端、桜の花びらがキョンの頬をかすめた。
 川沿いの桜並木は八分咲きといったところだ。まだ散るには早いが、風の強い日はこうやって、部屋の中にまで舞い込んでくる。うすく色づいた小さな花弁は、ついこの間まで空を舞っていた雪の代わりに、春を彩ろうとしているかのようだ。うるさい音にあおられ、それは風向きを視覚化する。
 ひとひら指でつまむと、すぐにつぶれてしまう。並木道を見おろすと、地面に落ちてしまったものから、たくさんの靴に踏みつぶされ、ごみといわんばかりにうち捨てられていた。この不憫な花は、風に吹かれているあいだだけ、この世でいちばんうつくしいものとして扱われるのだ。しかし、とキョンは思う。それでも、土に還ることができるだけ救いがある。
 裏の川面は、薄桃色の花びらで一面埋まっていた。

 こんな風に桜の舞う季節だった。二人が初めてキスをしたのは。
 それは、古泉の世界が一変した日だった。

   *

 その日古泉から急な呼び出しがかかった理由を、キョンは考えもしなかった。さして珍しいことでもなかったからだ。たいていは、涼宮ハルヒがらみのあれこれを、一人で勝手に喋って、満足して帰ってゆく。だからキョンはむしろ、うんざりした気分で、その呼び出しに応えた。
「もう僕が戦う必要はないのです」
 ペーパーカップのコーヒーをすすりながら、古泉はそう言って微笑んだ。
「ほう、とうとうクビにでもなったか」
 言葉の意味が飲み込みきれないキョンは、冗談まじりにそう返す。頬杖をついて、彼は明後日の方向を向いていた。
「ええ、そう言って差し支えないでしょう」
 予想外の答えが返ってきたものだから、キョンは思わず古泉のほうに目をやった。そこにはいつもと変わらない笑顔があり、やはり冗談なのか本当なのか、キョンには読み切れない。
「まじかよ」
 ネタのつもりだったのに、そう呟くと、古泉はますます笑みを深くする。
「雇い主がなくなってしまったのだから、世間一般には、僕は解雇されたと言えるでしょう」
 大きな通りに面したコーヒーショップのテラス席は、車や人の音がうるさく、会話の一つ一つにいちいち神経を使わなくてはいけない。せめて店内だったらまだよかったのに、古泉はがんとして譲らなかった。
「店内は禁煙ですからね」
 古泉はポケットから見慣れない紙箱を取り出し、中身を一本引き抜いた。その流れるような一連の動作に、キョンの目は釘付けになる。まるで何十年も繰り返してきたかのように、なめらかに手慣れているのが、キョンには不思議に思える。
「古泉、おまえ、煙草なんか吸うのか」
「吸いはじめたのは最近ですよ」
 別に嫌煙家というわけでもないが、キョンは思わず顔をしかめた。
「まあ、こんなこと言うのも無粋だが、おまえ未成年……」
 キョンは言葉を途中で飲み込んだ。彼の表情を見たら、深く追及してはいけないような気がしたのだ。
「まあ、いい。で、おまえがクビになった理由と経緯を聞かせてもらおうか」
 キョンが素早く話を切り替えると、古泉の視線は感心とばかりに彼をかすめる。
「簡単な話ですよ。『機関』は存在の必要がなくなったから解散したのです」
 キョンは瞬間目をみはり、思わず相づちを打った。
「それってのは、つまり」
 それがどんな感情を表しているのか分からない、できあがった笑顔で、古泉は答える。
「ええ、あなたの考えている通りでしょうが、涼宮さんの力はついに失われました。ずっとゆるやかに弱まりを見せていたのが、ここにきて突然の消滅です。きっかけは、これももうお分かりかと思いますが」
 ああ、とキョンは短く返す。たしかに、彼女の内面に変化をもたらしたであろう事柄が、つい最近あったところだ。
「卒業式、か」
「その通りです。高校卒業とともに、彼女にどのような心境の変化があったのかは、知るよしもありませんが……ともかく、僕たちをつなぎ止めていた一本の太い縄が切れたのはたしかです。この場から離れるも、はたまた自らの意志でここに居続けるも」
 そこで一度言葉を切った古泉は、笑顔と呼ぶにはあまりにも複雑すぎる面持ちで、
「僕たちには自由というわけです」
 そう続けた。
 体中の力が抜けていくのが、キョンには分かった。古泉も同じだったようで、ずっと手にしたままだった煙草に、ここでようやく火をつけた。
 そのとき、キョンの胸中に訪れたのは、やっと解放される、という安心感では、もちろんなかった。しまい込んでいた大切な宝物が、いつのまにかなくなっていたのを、知ったときみたいな気分だった。キョンにとって宝物とは、何も肌身はなさず持っているべきものではなく、時々ふと存在を思い出し、安心を得るためのものだった。普段は使いもしない癖に、いざなくなると途端に不安になるのだ。
 しかしキョンだって、いつまでも海で拾ったガラス玉だの、セミの抜け殻だのを、大事にしていられるわけがないことを分かっている。ものはいつか朽ちるということを、彼はすでに知っていた。それが大人になるってことかもしれない。
 キョンは今まで失ってきた宝物を思い出すたび、どうしてあんなにつまらないものを大事にしまい込んでいたのかと、絶望的な馬鹿馬鹿しさを覚えることがある。それが悪いことだとは思わないが、少しだけかなしくもあった。もちろん、ハルヒの力や、そのお陰で巡り会わせたSOS団員の皆が、彼にとってただの、がらくためいた宝物だったわけでは決してない。きっと十年や二十年の後になったって、ずっと忘れない大切なものになるだろう予感もある。それでも彼には古泉の宣告が、ある種の『終わりの合図』だとしか思えなかった。
 そしてキョンにとって何よりもかなしいのは、ハルヒが最後にそれを望んだという事実だ。
「――さん?」
 考えすぎてぼうっとしていたせいか、古泉がものいいたげな目を向け、キョンの名を呼びかけてくる。それでようやく、キョンは感覚を取り戻しはじめた。そうなると、様々な疑問や訊きたいことが、どんどんと湧き出してくる。
「じゃあ、長門や朝比奈さんは」
 まず思い浮かんだ質問がそれだ。キョンにしてみれば、目下気になるのは、この二人の今後だった。
 なんだかんだ言って、古泉もハルヒもこの時代の人間である。これからだって会おうと思えばどうにかして会えるだろう。しかし二人は違う。彼女らは現在において、イレギュラーな存在だった。未来からやってきた未来人は、元いた未来に帰らねばならないし、宇宙人は元いた星に帰らねばならない。
 キョンは初めて大人の朝比奈みくるに出会ったときのことを思い出す。会うなり「久しぶり」と口にした彼女はキョンに対し、いかにも久しく会っていない友人と再会したような懐旧の情を見せていた。一足先に高校を卒業した彼女は大学に入ってからも、何かと理由をつけてはSOS団の集まりに顔を出していたが、ずっとこの時代でのんびりと大学生をやっているわけにもいかないはずだ。それが彼女にとって本来の任務ではないことくらい、キョンにだって分かっている。
 彼女が未来へ帰ってしまうのは、彼にとってもはや動かしようのない事実であったが、それでも彼女や長門有希との別れのときが、できるだけ遅く訪れればいいと、わずかな希望に縋っていたりもした。
「僕にはなんとも言えません。が、彼女らには元々、帰るべき場所があります」
 そう言って古泉は眉尻をさげたまま微笑んだ。古泉はこういったとき、絶対に気休めを言わない。それが長所でもあり、短所でもあった。古泉の口にした道理は、キョンの胸をわずかばかり抉った。痛みすらわずかだが、それはいつまでも長く続くような痛みだった。
「そうだな」
 そう言うしかなかった。

 それから話したことといえば、予測や希望や想像をともなう、実にもならない話だった。時間が流れそのときが来るまで、真実も訪れない。そんなことよりも、今を見るべきだとキョンは思い、実際そう口にした。
「そうですね。まったくその通りです。別に僕たちは二度と会えなくなるわけではないのですよね」
 きっとこのとき古泉の内心は、キョンとは違い、やっと肩の荷が下りたという安堵の気持ちで占められていたのだろう。全く別の感想を抱いたキョンが、ようやく前向きな発言をしたことで、古泉はいくらか明朗さを取り戻したみたいだった。
 すっかり空になった二人分のペーパーカップを手に、古泉が「そろそろ出ましょうか」と立ち上がる頃には、すでに三時間ほど経過していた。普段の古泉の冗長な演説ですら一時間程度で切りあげていたのだから、この日はずいぶんと長く一緒にいたことになる。店内にごみを捨てに入った古泉を外で待ちながら、今日はこのまま別れることになるだろうと、キョンは帰り道の算段に入っていた。
 しかし予想は外れ、戻って来た古泉は妙な提案を口にした。
「これから、北高に行きませんか」
「別に構わんが、どうして」
「なんとなく、見ておきたいと思ったんですよ。大学が始まってしまったら、もう訪れる機会がないかもしれません」
 たしかに、この短い春休みの間に行っておかなくては、二度と北高に向かうこともないかもしれないと、キョンは思った。最後に母校をじっくりと見ておくのも悪くない。
「いいぜ、行こう」

 気候がいいから、北高までは徒歩で行くことにした。北口駅からだと決して近いとは言えないが、受験勉強になまった体にはちょうどいい運動になるだろうと、古泉が言い、キョンもそれに同意した。
 三年間幾度となく通った学校までの道は、ほんの少し離れただけでも、ずいぶんと懐かしく思えた。
「この坂登るのも久々だな」
「久々って、まだ卒業から一ヶ月もたっていませんよ」
「しかし今まで毎日登ってただろう。それがこれだけブランクあいたんだ。体も忘れちまってるよ」
 そう呟くキョンの息は、すでにあがっている。古泉も平静に見えてその実、足取りは重くなっていた。春休みだというのに、坂の途中にはぽつぽつと、北高生の姿がうかがえた。部活動に向かう生徒であろう。
「春休みなのにご苦労なこって」
「僕らもご苦労でしたよね。春休みだって、なんだかんだと部室に集まっていました」
「ああそうだった。フリマに行ったり大掃除したり、まじで苦労のかたまりだったね」
「苦労だけでしたか?」
「……まさか」
「でしょう」
 息が切れるから、短い会話の応酬のみが繰り返される。八合目あたりでとうとう二人とも無言になり、校門が見えた頃には、羽織っていたジャケットを腰に巻いて、軽く汗をにじませているような状態だった。
 額をぬぐいながら、キョンは息とともに言葉を吐き出した。
「な、なんでこんなに疲れるんだ」
「えらく、なまっていたようですね、僕たち」
「情けない」
「ほんとうに」
 校門前に佇んでいると、登校途中の在校生がちらちらと二人の様子をうかがってくる。私服姿の自分たちがやけにその場から浮いているように思えて、キョンはいたたまれない気持ちになった。
「大丈夫かよ、私服で入って」
「大丈夫ですよ、僕たちはおそらく学校中に顔が知れていますから」
「……なんだそれ、まったく嬉しくない上、それこそ大丈夫じゃないだろうが」
「平気ですって。最後に文芸部室でも見ておきましょうよ」
 古泉の言った通りだった。職員室に顔を出すと、二人の――というよりも古泉の姿を見留めた途端、先生たちはにこやかに寄ってきて、いやあ古泉くん、某大合格おめでとう、さすが古泉くんだね、誇らしいことだ、などと大袈裟なくらいの賛辞を与えはじめた。
 キョンが呆れつつその様子を遠目から見ていると「おまえも合格おめでとう」と背後から声を掛けられた。振り向くとそこには、結局三年間世話になった岡部担任がいて、朗らかな笑みをたたえながら「久しぶりだなあ」とキョンの肩を叩く。
「いや、まだ卒業してから一ヶ月もたってないんすけど」
 言いながらキョンはさっきの古泉とのやり取りを思い出し、ああそういえば岡部担任とは毎日顔を合わせていたのだなあ、と今更ながらに思った。
「ほんと、おまえらがいなくなって一気に静かになったよ。なんだっけ、おまえらの、あのエスオーエス団とかいうのは、卒業しても続けるのか?」
「まさか。ありゃ部活ですよ。学校卒業したら部活も卒業でしょう」
「なんだ、そうか。そりゃ残念だ。続けたら面白かったろうに」
「学外じゃ先生見れないじゃないっすか。つうかあんなに文句言ってたくせに」
「そりゃ学校にいた頃はなあ。他の生徒にも影響あるし、さすがにバニー姿で校舎練り歩かれちゃたまらんよ」
 先生の対応はまるで友人に対するかのように非常に軽快で、キョンはもうこの学校の生徒ではないことを、嫌でも実感することになった。そのことを寂しく思う気持ちも、すぐに忘れてしまうのだろうか、そうキョンは考える。
「あ、先生、ちょっと文芸部室に入れてもらいたいんすけど、ダメですかね」
「ああ、今はもう誰も使っていないし、少しだけなら大丈夫だ。鍵を持ってくるから待ってろ」
 岡部教諭はそう言うとすぐに鍵の保管庫へと向かう。その間に、先生方と話を終えたらしき古泉が、キョンの元へとやって来た。
「岡部が部室の鍵貸してくれるってよ」
「嬉しいですね。それならば、涼宮さんたちも呼んだほうがいいでしょうか」
 古泉がポケットから携帯を取り出し言うのを、キョンは手で制した。
「いいだろ、別に。休み中だし、今から呼び出しなんかかけたら、来るのがいつになるか分からん」
 間もなく岡部教諭が戻ってきて、懐かしい手触りの鍵をキョンは受け取った。済んだら返しにきてくれ、とだけ言って、そのまま彼は運動場へと消えてゆく。どうやらこれからハンド部の活動のようだ。
「せっかく鍵も借りれたし、ちょっと覗いてみるかね」
「ええ、行きましょう」
 そうして古泉とキョンは並んで、旧校舎へと続く廊下を歩きはじめた。

 校舎内には春休みとは思えないほど多くの生徒がおり、ある意味有名人だった二人を見つけるや、声を掛けてくる者は多かった。
「あ、キョン先輩だ」
「ほんとだ、どうしたんですか、こんなとこで」
「うるせえ、来ちゃ悪いか。別にいいだろうが」
「だって卒業したくせにぃ。言っときますが、大学生なんてもうおじさんですからねっ」
「ほっとけ」
 特に下級生からひっきりなしに軽口をたたかれているのはキョンのほうで、古泉はむしろ、遠巻きに視線を送られていた。キョンは声を掛けられる度、ある者には親しみを込めてがさつな扱いをし、ある者にはやさしい視線と言葉を送った。彼はそういう人間だった。ある程度までなら、相手の一番望む関係を自ら築いてくれようとするが、しかしある一線を越えることもなかった。
「じゃあねえ、先輩!」
 元気な女生徒の三人組が大きく手を振るのに、苦笑しながら応えるキョンを、古泉はじっくり観察するような目で見ていた。視線に気づいたキョンが振り向くと、薄く笑う古泉の顔が目に入る。
「なんだよ」
「いえ、相変わらずの人気だなと思いまして」
「おまえ、それは嫌味か。どこへ行ってももれなく絡んでくるおまえ宛の熱視線に、邪魔な壁扱いされている俺への嫌味なんだろう」
「何をおっしゃいますやら。誰彼構わずやさしくされるあなたに比べれば、眺められるだけの僕など、まことつまらない人間です」
「だからなんでいちいち癪に障る言い方をするか」
「そのようなつもりは毛頭ありませんが」
「じゃあそりゃ生まれつきか。無意識か。存在自体嫌味なやつだとは思っていたが、生まれつきならしょうがねえな」
 端から見れば諍いごとにしか見えないが、彼らの舌戦はかけあい漫才のようなもので、ただのなれ合いといってもよかった。在校の頃から、彼らは旧校舎の部室へと続く道中で、くだらない話を交わしていた。キョン自身、古泉と話が合うとは思ったことがなかったが、会話のテンポや、話のリズム、そういった別の要素において、古泉との会話に楽しさを見いだしていたのだった。キョンはそんなひとときが、嫌いではなかった。

 最後に鍵をかけたあの日から、部室はまったくといっていいほど変わっていなかった。文芸部蔵書の黴臭い本の匂いも、古びた扉の蝶番のたてる音も、窓から見える風景も、何もかもそのままだ。
「ああ、ほんの数週間ぶりだというのに、どうして懐かしいと思うんでしょうね」
 こもった空気を追い出すつもりか、古泉が窓を開けると、すでに花の開いた中庭の桜の花弁が、春めいた空気と一緒に、風に乗って部屋の中まで運ばれてくる。滞っていた空気がやわらかく流れ出し、そうなるとやはり自分の知る部室とは、少しだけ違うようにも感じられた。
「あれだけ毎日見ていたんだ、仕方ないさ」
 あの坂も、担任も、毎日見ていたから、少しの間離れただけでも、遠い過去のように思えてしまうのだ。キョンは感傷に浸ることをよしとしない性格であるが、この日ばかりはそれを撤回しなくてはいけなかった。
 古泉のほうに目をやると、彼は窓際の手すりにもたれかかり、中庭に視線を向けて、何やら考えている風だった。風が吹く度揺れるしなやかな髪が、彼の表情を隠してしまう。
「僕たちもそのうち、そうなってしまうんでしょうか」
「んー?」
「だんだんと会わなくなって、しかし時々は顔を思い出して、元気かなあなんて考える。そのとき一瞬は切なく、やるせない気分になっても、その感覚はすぐに日常に溶けてなくなってしまう。それだけの関係に、変化していくのかもしれません」
 ぽつりと漏らした古泉の声のトーンは、いつもとわずかばかり違っていた。
「さあな」
 やはり古泉のこういうところは短所でしかないと、キョンは思った。
 考えていても、口に出すべきではない。口にすれば、ほんとうになってしまうような気がする。キョンはどちらかといえば唯物論者である。それでも、「言霊」の存在をきっぱりと否定できるだけの自信はなかった。すでに宇宙人と未来人と超能力者と喋る猫の実在を知っているだけに、仕様もない。
 キョンの返事に反応するかのように、思い切りよく古泉が振り向く。その視線の先にはキョンがいる。思い詰めたような彼の表情は、キョンが初めて目にするものだった。
「僕は、嫌です」
 言いながら、古泉は歩みを進める。静かな部室内に、床を叩く音が妙に響き渡る。キョンのほんの十数センチ前で古泉はようやく足を止め、彼の頭頂部を見おろした。
「僕はあなたとそんな関係にはなりたくない」
 古泉の声はかすかに震えていた。思わず見あげた古泉の髪に、桜の花びらがついているのを見つけ、キョンは手を伸ばす。
 その瞬間、強い風が古泉とキョンの髪をあおり、それが彼らの視界をくもらせた。
 ほんの一瞬だった。髪が目に入った痛みも、くちびるを何かがかすめる感触も、桃色の残像も。
 目を開けると古泉の、ガーネットみたいな瞳に映る自分の姿が見えた。キョンは取り逃した花びらの行方を追い、視線をさまよわせる。古泉の髪には、もう何もついていない。きっと、さきほどの突風によって、どこかに飛ばされてしまったのだろう。
「あなたは、どうですか」
 古泉が消え入りそうな口調でそう言うのを、キョンはぼんやりとした頭の隅で捉えようとする。
(俺は、どうなんだろう)
 考えるとキョンは突然、古泉と離れがたくなった。
 古泉が自分を忘れてしまうのが、途端、恐ろしいことに思えてきたのだ。

 あのときの古泉のキスが、最初に自分を雁字搦めたのだと、キョンは後になってようやく気づいた。
 だから、思い出すとかなしくなる。
 それから、キョンは桜の季節が好きでなくなった。




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