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古泉からそんな手紙が届いた日、偶然にもここいら一帯にも雨が訪れていた。菜種梅雨というやつか、長々と雨は降り続き、桜はすっかりと散ってしまった。
古泉の家の近くに、キョンは妙な店を見つけた。そこはどう見ても古い民家で、いつ前を通りかかっても、看板らしきものは見当たらず、代わりに「営業中」とだけ書かれた木の札が、引き戸にぶら下がっている。どうにも気になっていた。
その日、昼から雨が上がったものだから、たまには外で昼飯を済ませようと、キョンはいつもの通り、近所をあてもなくうろうろしていた。むろん、あの不思議な店の前も通ることになる。相変わらず、店なのか何なのか一見判別できないような外観である。普段ならば、気になりつつも素通りしていただろうが、何故か古泉の手紙が脳裏をかすめ、気づいたら、その扉を開けていた。
入るやいなや、「いらっしゃいませ」と控えめな女性の声がカウンター奥から聞こえてきた。中はますますもって不思議な空間であった。テーブルとイスが並んでいることから、かろうじて飯屋の類だと分かる。しかしその割には、地味というか簡素というか、とにかく、商売っ気の感じられない内装だった。
だからといって、いかにもやる気のない町の食堂といった趣ではなく、むしろ、インテリアにあまり明るくないキョンでさえセンスのよさが分かるほど、すべてが上品で、洗練されてもいた。
机にきちんと置かれた品書きには、二つのメニューだけが並んでいる。今週のカレー、それからドライカレー。今週のカレーと書かれた下には手書きで中の具材が記されており、どうやら中身だけが毎週変わるのだと分かる。その日は「ブロッコリーとひき肉とじゃがいも」とあった。裏を返しても、ドリンクメニューが数個、並んでいるだけだ。
「あの、ここはカレー屋ですか」
キョンは思わず、店員の女性にそう尋ねていた。素朴な印象のその女性は、一瞬目をぱちくりさせ、そしてとても可愛らしく微笑んだ。
「そうです。ごめんなさいね、分かりにくい店で」
「いや、こっちこそ、興味本位で入ってしまって。すいません。ええっと、今週のカレーください」
彼女はにこにこしながら「はい」と返事をすると、すぐに真剣な表情になり、どうやらガスコンロの前で手を動かしはじめた。おそらく、彼女が店主なのだろう。
何かを洗う音、油の音、炒める音が、静かな店内に響きだす。客はキョン一人だけだった。落ち着きなく周りを見回していると、端のほうに本が山のように積まれているのを見つけ、とりあえずとキョンは本の山に近づき、一番上に置かれた古い文庫本を手にとった。ハトロン紙でくるまれたそれは表紙からして古びた風合いで、印刷だってまるでガリ版刷りみたいだ。本からは、樟脳と埃のにおいがした。表紙に並ぶタイトルも作者名も、てんで聞いたことがない。なんとなく気になり、それを手に席に戻ると、キョンはぱらぱらとページを捲りはじめる。
おもしろくも、つまらなくもない小説は、この空間に妙にマッチしていた。少なくともカレーが出てくるまでの十数分間、暇をつぶす程度には役立った。
そして出てきたカレーがまた、不思議なものだった。別にルーの色が毒々しいとか、ご飯のかわりに謎の白い粒が盛られているとか、そういうことではない。ただし至って普通とは言い切れない見た目である。真ん中にご飯、ルーはその周りに、ドーナツ型に添えられていて、それからご飯の上に大量のキャベツの千切りが乗っている。水っぽいルーはインド風なのかと思えば、口に入れた瞬間、とても懐かしい味が広がった。
「あ、うまい」
「そう? ありがとう」
思わず漏らした感嘆の言葉に、嬉しそうな返事が返ってくる。見るとカウンター越しからキョンの様子をうかがうように、店主が身を乗り出していた。どうやらキョンがカレーを口に入れる瞬間から、ずっと反応を待ち構えていたようだった。キョンが思わず笑みを零すと、彼女もそれに答えるように微笑む。
「うまいっす」
もう一度キョンは言い、その後は黙々とカレーを頬張り続けた。
キョンにとってこの店のカレーは、文句なしにおいしいと思えるものだった。どことなく古くさく、それでいて初めて味わうような、掴みどころのなさもある。
すっかり空になった皿を見て、キョンはふと既視感を覚えた。目の前にあるそれがどうにも、よく見覚えのあるもののような気がしたのだ。真っ白なシンプルな皿は、どこにでもありそうなデザインだが、すべてが計算されたデザインであるかにも思える。スプーンだってそうだ。木の取っ手で少し変わった形の大きなスプーンも、皿も、もしかしたらキョンが知らないだけで、著名な品であるのかもしれなかった。雑誌や何かで使われていたのが、記憶の端に引っかかっているのかもしれない。しばらく記憶をたどってみたが、やはり普段から食器やらに興味のある人種ではないキョンのことである。意識して見ているわけではないものを、思い出せるはずもなかった。
代金を払って外に出ると、空にはまた少し雲が出はじめていた。薄曇りなので、空自体は明るい。風が強く、雲が早送りでもしているみたいな流れ方をしている。
キョンはぼうっと空を眺める。時おり風に乗って舞い散る桜が、視界を横切るのを、まるで幻のようだと、彼は思った。
数日後、古泉の部屋の食器置き場で、キョンはあの皿を見つけた。間違いなく、あのカレー屋で使われていたものと同じ皿で、ふと気になってシンク下の引き出しを開けると、あの変わった柄のスプーンもそこにあった。
どうりで見覚えのあるわけだ。
キョンは何度も、この皿と、このスプーンで、自作のカレーを食べていたのだ。
キョンがここを訪れて何度目かのあるとき、彼は古泉のためにカレーを作った。市販のルーで作る、なんてことはない、ただのカレーである。しかし古泉はそれ以来、ことあるごとにキョンのカレーを食べたがった。そのたびキョンはカレーを作り、そしてカレーはいつも古泉の揃えた専用の食器に盛られることとなった。
真っ白の皿と、黒い木の柄のスプーンと、カレーの黄色は、きれいなコントラストを生み出した。キョンは案外、その光景を気に入っていた。それを見る古泉が、いつでも満足そうな笑みを浮かべていたのを思い出す。
きっと、古泉もあの店で、あのカレーを食べたのだろう。そうして何かひと欠片でもいいから、自分の殺風景な部屋に、あの店の空気を持ち込みたくなったのかもしれない。あたたかで、ゆるやかで、すぐ近くに誰かがいる、そんな世界の欠片を。
キョンはテーブルに空っぽの食器を並べてみた。白と黒がモノクロの世界を作り出す。蛍光灯の光を反射したそれは、やけに安っぽく見える。
器だけここにあっても、意味はないのだ。
二人でカレーを作る行為、それ自体が楽しかった。キョンはここに住みだして初めて、一人ぼっちの夕食の寂しさを知った。二人で向き合って食事を取る、それだけのことが、どれだけ古泉の支えになっていたか、彼は今になって分かってしまったのだった。
この皿が使われないままだった半年間を、巻き戻すことなんてできない。主のいないこの部屋の現在は、古泉が一人きりの食事を繰り返した結果なのかもしれなかった。