100 love letters

 前略
 今日は突然暑くなりました。
 街から街へ南下したせいもありますが、
 それでもここいらは例年より気温が高いそうです。
 ついこの間まで、コートにくるまっていたというのに、
 季節の変わるのはいつでも突然ですね。
 旅の最中、荷物の増えることは一番の悩みの種です。
 僕はいつも街を出るたび、
 増えた分だけ荷物をそこに残してゆきます。
 本だったら古本屋に売ったり、衣類は古着屋に売って、
 代わりにそこで新しいものを買うのです。
 いつか誰かが、僕の売ったものを買って、
 そして旅を続けるのかもしれないと思うと、
 とても不思議な気分になります。
 もしかしたら巡り巡って、どこかで再会できるのかもしれません。


    52

 あたたかい、というにはいささかきつすぎる日ざしが、白いカーテンを通り抜けて、床にゆらゆらと光の波を作り出している。カーテンを交換してからこの部屋は、朝と夜の境目がはっきりと見えるようになった。
 まぶたの裏側にリズムよく、光の揺れる様が刻まれる。キョンは眩しげに眉をしかめ、それからゆっくりと目を開けた。全身がサウナのような蒸し暑さで包まれているのに気づき、一気に体が覚醒する。ふと首筋に手をのばすと、うっすらと汗ばんでおり気持ちが悪い。毛布は蹴り落とされ、床にだらしなく丸まっている。ベッドをきしませて体を起こすと、緩慢な動作で布団から這い出て、キョンはその場で大きくのびをした。
 昨日の夜にポストから取り出した古泉の手紙は、未だ封を切られず、コーヒーテーブルの上にのせられたままだった。ここのところずっと、前日に届いたそれを、朝食の最中に読むことにしているからだ。
 キョンは古泉の手紙を、夜のうちに読む気がしなかった。彼の手紙の内容はいつだって、明るい光の香りがした。だから朝に読むと、すべてがきらきらと輝いていて、これを書いている古泉が、とてもやわらかな気分でいるのだと思えるのだが、夜にはそれがなんとなく、くすんで見えるような気がした。
 食パンを焼いている間、簡単なスクランブルエッグをこしらえ、買い置きしているヨーグルトのカップを冷蔵庫から取り出す。古泉の家には妙に平べったいかたちをしたスプーンしかなく、ヨーグルトを食べるには少し小さいのだが、仕方なくそれを使う。
 テレビもラジオもないから、朝から部屋の中はしんとしている。時おり外から、鳥の鳴き声や車のエンジン音に混じって、通学途中の小学生らしき子どもたちの声が漏れ聞こえてくる。今日は算数があるんだよ。昨日の仮面ライダー見た? ちえちゃんのスカートかわいいね。小鳥のさえずりのように、断片的に届く話の欠片。それがキョンにとってのBGMだった。
 外に耳を傾けながら、キョンは手紙の封を破る。中からは、海の匂い。便せんと一緒に、かさかさと底のほうから、小さな薄べったい貝がらが顔を出した。

   *

 古泉と一緒にいることが、いつしかキョンにとって当たり前になっていた。古泉と一緒にいると、思考が停止する。何も考えなくなる。だからとても居心地がよかった。何もない古泉の家が、キョンにとって一番安心できる場所になるのに、そう時間はかからなかった。
 涼宮ハルヒからは思い出した頃に、ちょくちょく連絡がきた。キョンは会うたび彼女が目をきらきらと輝かせているのを見て、やすらかな気分になるとともに、ささやかな喪失感を覚えた。
「ねえキョン、あたし思うの。いつまでも包囲された世界で視界を狭めていることに、まったく意味なんてないんだわ。井の中の蛙とはよく言ったものね! 四方を遮られたままじゃ、この世に果てがあることにだって気づけないのよ。日本て国は、八方何かに塞がれて、息苦しいったらないわ。だからあたし決めたの。近いうちに、あたし日本を出るわ。実は数カ所海外からお声がかかってるのよね。大学の研究室と、企業の研究部。それからパトロンになってくれるってところも。でもそいつらいったい何を見たのかしら? 教授が勝手にあたしのレポートを学術誌に送りまくってるって話は聞いてたけどね。どっちにしろ、選択肢は無数にあるわ。だってこの世に不自由なんて、実は存在しないんだもの!」
 いつものようにキョンを呼び出した彼女は、行き慣れた喫茶店のいつもの席にて、テーブルに向け派手に拳を振り下ろした。キョンはその音に驚いて、思わず周りをうかがったのだが、どうも常連はハルヒの奇行に慣れきっているようで、誰もこちらを見ようとしない。そのことに安心したのち、キョンはどんどん呆れてきて、そのハルヒの戯れ言が、非常にどうでもいいことのように思えたので、こう言った。
「おお、そりゃいいこった。応援するぞ」
 本気なんだか冗談なんだか、いつもの通り分からないが、おそらく言ったからには必ず実行に移すだろうと、そのときキョンは思った。涼宮ハルヒに関してのキョンの予想は、競馬場前で講釈ぶっている予想師並に的中率が高い。キョン自身、ひそかに自負しているほどだ。
 そしてしばらくして、それは予想通り真実となった。

 卒業してから二度目の春が来て、短い桜の時期を古泉とキョンは見送った。
 本格的に暑さが訪れはじめた頃、久しぶりにキョンの元へハルヒから電話があった。通話ボタンを押した途端、ずいぶん興奮した様子の声が飛び込んできて、キョンは思わずスピーカーから耳を遠ざけたほどだ。電波にのって、唾まで飛んできたような錯覚すら起こした。
 電話越しにハルヒは頭に血がのぼっていたのか脈絡を得ない話しぶりだったが、かいつまんで言えば、アメリカのとある企業から、正式に協力要請がきたこと、資本のみ企業もちで、あとは好きに研究をしていいと言われたこと、などがおおよその内容だった。
「要はパトロンよね。あたしの貴重な研究の成果を発揮するにはすこーし、小さい会社だけど、その分自由がきくわ」
 ハルヒの声音は終始、意気揚々とはずんでいた。まるでこれからが人生の本番で、今までのことなどすでに忘れてしまったかのように。
「そうか、寂しくなるな」
 キョンの口から漏れたのは、まごうことなき本心だった。ハルヒは電波の向こうで一瞬黙りこくり、そしてやけに明るい声で言った。
「大丈夫よ、あたしたちはつながっているもの。何も寂しいことなんかないわ」
 詭弁だと、キョンは思った。
 通話が切れたあとも、キョンは携帯を手にしたまま、ぼうっと宙を見つめ続けた。
 結局、ハルヒが求め続けたものは、人生においての潤いで、自分たちはそうなりきれなかったのだと、キョンは自分でも驚くほどの落胆を覚えた。そして思っていたよりもずっと、SOS団が自身の中心で強く存在感を放っていたことを、キョンはようやく自覚したのだった。

「涼宮さんが、アメリカにですか」
 さすがにその一報は、古泉の目をまん丸くさせるだけの効果があった。
「一カ月後だとよ。急な話だよな。まあ、あいつらしいって言やあいつらしいが」
 ハルヒのアメリカ行きを聞いてから、古泉は明らかに平静を失っていた。ぼんやりとした視線は、どこを見ているのだか判別しがたい。それからはキョンのこしらえたカレーの匂いに一度鼻を動かしたきり、反応らしき反応は皆無だった。
「古泉」
 呼びかけるとやっと、古泉はキョンのほうを向いた。あたかも今気づいたかのように、テーブルに置かれたカレーの皿に目を移す。
「ああ、すみません」
 それだけ言って古泉はスプーンを手にとる。
 かちゃかちゃと、食器の重なる音だけが部屋に響いていた。静かなのはいつものことだが、この重苦しい空気はいただけない、そうキョンは思うが、口に出すことはない。古泉の真っ白い顔を見てしまっては、何も言えるはずなかった。
「おいしいです」
 沈黙を無理にでも破りたかったのか、古泉はしわがれた声をしぼり出した。
「そりゃよかった」
 できるだけやさしい声で、キョンは言った。言いながら自分自身が、だいぶ落ち着きを取り戻しているのに気づいていた。古泉が取り乱してくれたおかげだろう。つらい気持ちは引きずったままだったが、少なくとも古泉の心配ができるほどには、冷静に事実を噛みしめていた。
 食べ終えた食卓を片付けている間も古泉はぼうっと座り込んだままで、キョンは気にせず古泉の代わりに洗い物を済ませ、いつものようにベッドに転がると、持ち込んだマンガ雑誌を捲りはじめる。内容なんてまったく頭に入ってこないが、何もせずにいるよりはいくらか気がそれる。古泉が気になってたまらないものの、キョンはあえて素知らぬふりを通していた。
 だから古泉が突然に発した一言は、キョンの耳にやけにクリアに響いた。
「あなたはそれでいいのですか」
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「なんの話だ」
「涼宮さんですよ。彼女をこのまま行かせてしまってもいいのですか」
 古泉は思いつめた声で、まるで教会の懺悔室で司祭を責めるみたいに言う。そんな様子にキョンは困惑を隠せなかった。
「いいも何も、ハルヒが決めたことだろう。俺がどうこう言うことじゃない」
 思ったままそう口にすると、古泉は瞬く間に顔を歪めて、笑顔に見えないぎこちない笑みを浮かべる。
「そんなはずないでしょう。あなたが止めようと思えば、それは叶うはずです」
「アホか、ハルヒが自分の考えを曲げるわけがないだろう。だいたい俺はハルヒに行ってほしくないと思ってすらないぞ」
「強がらないでください。あなた、涼宮さんが好きなんでしょう。そして涼宮さんだってあなたのことを」
 その言葉を聞いた瞬間、キョンは目の前が真っ赤に染まった気がした。古泉を殴り飛ばしたいと思ったのは初めてではないが、それでもこんなにも強く、憎しみにも似た感情を抱くなど、思いがけないことだった。衝動的になるのを必死でこらえ、キョンは強く拳を握りしめる。手のひらに爪が食い込んで白くなるくらいに。たった今古泉に見せているであろう、情けないほど歪みきった自分の顔が、ありありと想像できた。
 それからキョンの口からどうにか絞り出された言葉は、掠れきって、ひどいものだった。
「ハルヒはもう、こっちなんか見てねえよ。この場に縛られてるのは、俺とおまえだけだ」
 それだけ言うと、キョンはひどく疲れてしまい、ずるずるとその場にくずおれた。
 だからそのとき古泉が、どんな顔をしていたのかも、よく覚えていない。

 妙に寝苦しく、その日は夜半に目が覚めた。それもそのはずで、ベッドに横たわるキョンのその上に、古泉のでかい図体が重なっていたのである。どうやら疲れきった自分たちが、なかばもつれ合うようにして眠りについたことをなんとなくだが思い出し、キョンはしかめ面をますます険しくした。
「おい、古泉。重いからどいてくれ」
 すぐそこにある古泉の肩を掴んでゆすってみるが、古泉は「あー」だの「うう」だのと小さなうめき声をあげるだけで、一向に起きる気配がない。すでにしびれきった腕の感覚がだんだんと薄れてきて、いよいよまずいと思いはじめた頃だった。
 いつの間に目を覚ましたのか、古泉がしかと目を開き、キョンを凝視していた。
「おい、起きてんならさっさとどいてくれ。重いんだって」
 キョンが横目で睨みつけても、古泉はどこうとしない。それどころか古泉の腕は、強くキョンの体を押さえつけ、身動きすら取れそうになかった。そうこうしているうちに、すっかり古泉がキョンの腹に乗っかるかたちになっており、キョンは訳も分からず、されるがままの体である。
「なんだよ」
 そう問いかけても古泉は無言のまま、キョンの肩を掴む力を強めただけだ。古泉の目は切羽詰まっているという表現がぴったりで、キョンは思わず生唾を飲み込んだ。馬乗りになった古泉はキョンをしかと見おろし、そのまま顔を近づける。
「ごめんなさい」
 古泉はたしかにそう口にした。キョンの顔ほんの目の前で。そのまま彼の口は、言葉を丸ごと飲み込んで、すべてを封じてしまった。古泉のくちびるが、またもキョンを雁字搦めに捕らえようとする。
 なんてことだ。キョンは息苦しさにもうろうとなった頭の片隅で、嘆きの言葉を吐いた。
「ごめんなさい」
 古泉の平坦な声だけが天井に吹きだまってゆく。何度も同じ言葉ばかり、オウムのように繰り返す。
「ごめんなさい」
 言いながら古泉は、キョンのシャツをはいだ。しわだらけなのは、来たときそのままの格好で眠りについてしまったせいだ。明日また同じ服を着て学校へ行かねばならないと、キョンは考えただけで嫌になる。古泉の冷たい手がキョンの腹にふれる。あまりの冷たさに身を竦めると、また古泉は同じ言葉を唱えた。まるでそれが魔法の呪文とでも思っているみたいに、許しを乞う言葉を唱え続けた。
 体中を這い回る古泉の手もくちびるも、キョンにはまるで現実のものとは思えなかった。まぼろしみたいなそれは、抵抗する気力すら奪ってゆく。はなから抵抗する気はなかったが、だからといって沈黙を肯定に受け取られるのも癪だった。しかしだからこそキョンは古泉に、何も言わなかった。許しを与えず、ひたすら、彼の言葉を聞いているだけだった。
「う……」
「ごめんなさい」
「いたい」
「ごめんなさい」
 痛いやら情けないやらで、流したくもない涙がだらだらとこぼれる。そんなキョンを見て古泉はますます情けなく顔を崩すが、言葉も、動きも、止めようとはしない。つながった体の一部から伝わるのは、どす黒くて汚くて、しかしどこまでも空っぽな感情の波だけだ。こんな風に体をつなげることなど、きっと二人して望んでいないのに、見えない何かが古泉を動かし、それにキョンは飲み込まれたのだろう。
「ごめんなさい」
 ぽつりと頬にしずくが落ち、汗かと思えばそれは古泉の流した涙だった。すでに正体の分からないどろどろとした液体にまみれていたのに、彼の涙はキョンの中に染み込んでゆく。どうしようもなく古泉が、あわれに思えた。
「ほんとうに、ごめんなさい」
 それが最後の謝罪だった。気持ちの悪い感触が、キョンの内側を侵して、古泉は力尽きたように、そのままキョンの上へと倒れかかった。汗ばんだ古泉の体が密着して、ひどく肌触りが悪い。ちょうどキョンの肩あたりにある頭を力弱く撫でると、古泉は息を切らせて、静かに目を閉じる。すると生あたたかいものが、キョンの肩を一筋流れ落ちた。

 謝るくらいならこんなことすんな。キョンはずっと言いたかった言葉を飲み込んだまま、とうとう吐けずじまいだった。

 次の日目を覚ますと、床に敷かれた布団を片付ける古泉が目に入った。にこやかに「おはようございます」と言う古泉はまるで昨晩の面影がなく、キョンは瞬時に、あれはなかったことになったのだ、と判断した。だから普通に挨拶を返した。昨日の夜の出来事を示すのは少なくとも、キョンの体ににぶく残る痛みだけだった。それすらも、きっと一日も経たない内に、跡形もなく消え去ってしまうだろう。
 その後二人は普通に起き出し、普通に朝食を食べ、普通に駅まで二人で歩いて向かい、それからホームで別れた。




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