100 love letters

 前略
 昨日見た風景が丸きり変わってしまうような
 体験をしたことがありますか。
 僕はつい先日、初めて体験しました。
 そこは、空が映ると言われている塩の湖でした。
 その現象は雨期の合間のよく晴れた日にしか見られないので、
 運が悪ければ何日滞在しても見ることができないと言われましたが、
 僕はどうしてもそれが見たくて、
 数日間その何もない場所に留まっていました。
 最初の二日はずっと雨が降り通しで、
 僕は半ば諦めながらも、三日目にようやく晴天を迎えました。
 その風景を目にしたときの感動は、とても一言では言い表せません。
 昨日まで薄暗い雨雲の下、灰色の広がる世界だったのが、
 見渡すかぎりの空でした。
 360度、どこを見ても、足下もすべて、空なのです。
 僕は息をのみ、口をだらしなく開いたままその景色を眺めていました。
 相当馬鹿面をしていたようで、
 ホテルで仲良くなったドイツ人に笑われました。
 (ホテルはその塩湖のど真ん中に建っているのです)
 しかし、それほどすばらしかったのです。
 あなたにもそれを見せたくて、写真を同封しました。


    64

 写真には、まるで古泉の言葉通りの風景が広がっていた。空はまるで鏡に映ったかのごとく、見事なまでに塩湖の水面に反射している。空と地の境は限りなくゼロに近く、だから傍目には、映り込んだ人の影が、まるで宙に浮いているかのようだ。きっと晴れた日の夜など、天然のプラネタリウムに変貌するのだろう。
 雨期の間だけ溜まる水に丸ごと世界が映り込むこの現象を、キョンは未だ本の中でしか目にしたことがない。古泉の送ってくれた写真は実際にそこに足を運んだ何よりの証拠であり、密かにこの不思議な自然の湖に憧れていたキョンは、たいそう羨ましくなった。
 そしてこれが初めての、古泉の居場所を記す手紙となった。塩湖の真ん中に建つホテルなど、キョンの知るかぎり一軒だけである。だからといって今もそのホテルに滞在しているとはとても思えないし、元よりキョンは古泉に宛てた手紙を書くつもりもなかった。
 部屋の窓を開けて外をのぞめば、日本の空はなんとも味気なく、しかしなじみ深い。まるで家のみそ汁みたいなものだとキョンは思う。写真に映る空はとてもうつくしく壮大だが、きっといずれ古泉も、こじんまりとした空が恋しくなるにちがいない。

   *

 古泉の様子は、あの夜の一件から、特に変わることもなかった。あの行為のおかげで古泉が持ち直したのならば、犬にでも噛まれたと思って忘れようとキョンは努めたが、それが都合のよい勘違いだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
 最初のうちは体が覚えた恐怖心のせいで、キョンは古泉の元へ行くたび逃げ出したくなった。しかし及び腰になるのをぐっとこらえて、古泉のそばを離れずにいた。大切なのは距離のとり方だった。近づきすぎず、遠ざかりすぎず、ちょうどいい位置を保っていれば、それだけで古泉の隣という場所は、格段に居心地がよくなる。キョンにとってそこはずっと前から、すべてを我慢してまでも離れがたい、意味のある場所だった。
 二度目の夏を越えて、再び色づきはじめた近所の木々の下をくぐる。また秋が訪れて、冬がやって来ても相変わらず、キョンは古泉の隣に並んでいた。
 二人は大学三年になった。もう二年以上も一緒にいるというのに、未だ古泉の大学生活が見えてこないことに、キョンはまったく疑問を抱いていなかった。きっと古泉からしてみれば、お互いさまであったことだろう。キョンは意識的に、大学の話題を避けていたのだ。おそらくキョン自身、古泉の口から大学生活の話を聞きたいと思っていなかったせいだろう。自分の入り込めない場所をまま受け入れるのには、それなりに覚悟がいる。

 キョンの学部は生徒数が多く、専門科目の講義でも大教室が使われることが多かった。しばらく経った頃にはどの生徒もたいがい、自分の指定席ができており、キョンも例にもれず、自然と近くの席の者と話すようになっていた。
 ある日いつものように教室の一番後ろの真ん中あたりの席に腰を下ろしたキョンは、ふと隣に座る少女を見て、心底ぎょっとした。
「おまえ、どうしたんだそれ」
 少女はキョンと同じ学部生だ。二年の頃最初の授業で隣になって以来、話せば妙に意気投合したのもあり、彼女とキョンは比較的仲のよい友人同士だった。その彼女が、目の周りに大きな青あざを作っていたものだから、キョンの驚きは相当なものだった。しかもそれは、人為的につけられた傷にしか見えなかったのだ。
「ちょっと転んじゃって」
 困ったように笑う彼女の表情は、どこかキョンのよく知る人間を思い出させる。彼のそれとは違って、嘘くささはまったくないのだが。
「そんなわけないだろう。それどう見ても殴られた跡じゃねえか」
 キョンは声を抑えて言った。途端、彼女は肩をびくりと震わせる。ふるふると小さく首をふる様子に、ただ事ではない事情を感じて、キョンはこれ以上立ち入っていいものかと躊躇した。何せ、女の子が殴られるような事態、思いつく限りではさして多くない。そしてその理由どれもが、やすやすと触れてはいけないものばかりだ。
 その場は仕方なく、「まあ、気ぃつけろよ」とだけ言葉をかけた。彼女はあからさまに安堵したようで、ようやく本来の笑顔に戻る。
 可愛らしい子である。キョンは彼女の、吹けば飛びそうなほど小柄な体型も、ふわふわとした砂糖菓子みたいな髪も、こっそりと気に入っていた。だからといって彼女に恋愛感情を抱いているかといえばそうではなく、たとえば友人の家にいるウェスティを見てなんともやさしい気分になるのと、同じような感覚だった。
 彼女に特別気があるのはむしろもう一人の友人のほうだ。そいつの顔を思い浮かべたところで、タイミングよく本人が教室に入ってくるのが見えた。特別でかい図体をしているのですぐに分かる。キョンたちの姿を見とめると彼は、まっすぐに最後部席へと向かってきた。キョンが席を一つずれ、彼女の隣を空けると、当然のように彼はそこに腰掛ける。
「うぃっす」
「よう」
「おはよ」
 互いに短く挨拶を交わしたところで、一足遅れたように、彼は先ほどのキョンと同じような反応を見せた。つまり彼も少女の顔の怪我を見て顔を歪めたのだが、キョンと違っていたのは、彼が何も尋ねなかったことだ。瞬時に、こいつは事情を知っているな、とキョンは考えつく。そうして、彼を挟んだ向こう側にいる少女に聞こえないよう、声を落として隣に囁いた。
「昼飯一緒に食おう。話がある」
 もちろん彼は、何も言わずに頷いた。

 二時限が終わるやいなや、キョンは学食へと急いだ。中を覗くと、すでに授業を終えた学生たちで席は半分ほど埋まっている。すぐにキョンはその中に待ち合わせ相手の姿を見つけた。彼もキョンに気づくと、手を振って場所を知らせる。
「わりいな、遅れた」
「いんや、俺も今来たところだよ」
 小さな目を細めて、友人は言った。短く刈りあげられた真っ黒い髪は、がっしりとした体型と相まって硬派な印象を与える。それもそのはずで、彼は現在大学のアメフトサークルでタイトエンドをやっているのだ。キョンとは旧知の仲であるその友人の名は中河といった。
「なあ、あいつの顔の傷、ありゃなんだ」
 目の前のきつねうどんに手をつけないまま、開口一番そう訊くと、中河は気まずそうに視線を逸らした。キョンは心の中でビンゴ、と呟く。
「おまえはどうも事情を知っているようだな。俺の予想が正しければ、あのまま彼女を放っておくと、何かとんでもないことになりそうな気がするんだが、それでもいいのか」
「俺がどうにかする」
 その言葉だけはやけにしっかりと、確かめるように中河は口にした。強い決意だけは感じるが、肝心の「どうにか」がいったい何を指しているのか分からないキョンには、彼を信用していいものか判断できない。独りよがりに話を進めるのは昔から変わらないなと、キョンは芋づる式に高校一年の寒い冬の日のごたごたを思い出し、つい懐かしい気分に浸りかけたのを、無理矢理頭から追い出した。
 それから、意識して真剣な表情と声を作る。
「おまえが頼りになるのはよく分かる、だが、何をどうするのかくらい教えてもらいたいもんだな。プライバシーの問題があるのは分かってる。けど俺だって一応あいつの友だちなんだ。何か力になれることがあったら、尽力は惜しまんつもりさ」
 それだけ言って、キョンはようやく割り箸を手に、目の前の昼食にありつく。わざと黙ってうどんを啜っていると、中河はしばらく考え込むような仕草を見せていたが、とうとう意を決したように、キョンに視線を向けた。普段は大声で話す中河が、周りを伺うように声をひそめる様子は珍しく、事態の深刻さが嫌というほど伝わってくる。
「誰にも言うなよ。……あいつ、今年上の男と同棲してるんだ。で、最近なってそいつが仕事辞めたらしくってさ、それから急に、アレだよ」
「……それって、いわゆる……」
「まあな」
 話を詳しく聞けば、どうやら前々から予兆はあったらしい。情けないことにキョンはまったく気づいていなかったのだが、服で隠れるような場所にわざと狙ってつけられた痣が、偶然中河の目に留まったのだそうだ。当然のごとく中河はどうしたことかと追求したのだが、彼女は頑として原因を口にしなかった。それでも手首につけられた、煙草の形のやけど跡を中河が見つけてからは、言い訳も通用しなくなったと思ったのか、ようやく彼女は重い口を開いた。中河は彼女を思うあまり、彼女が見られたくない部分まで見てしまったのだ。
「やばいだろう、それ。警察とか支援所とか、しかるべきところに相談に行くのが先決だと思うぞ」
 キョンは知らず眉を強くひそめていた。反吐が出るほど嫌な話だ。今までテレビやニュースの向こう側にあった他人事のような事件が、よく知る人間の身に起こっている。そんなことを簡単に甘受できるはずなかった。衝動的な嫌悪の情が、キョンの胸を圧迫するかのようにじわじわと湧き出す。
「無理だ。俺だって何度もそう言ったけど、あいつが行きたがらないんだよ。むかつく話なんだけどさ、よく言うだろう、そういうやつって、暴力ふるったあと、すげえやさしくなるんだってよ。そいつもご多分に漏れずって感じで、まあつまり、あいつまだその男のことが好きで、離れたくないんだろうよ」
 中河は憎々しげに、一言一言を吐き出した。
 それもまた、よく聞く話だ。飴と鞭の構図そのままである。キョンには理解しがたい感情だったが、それは自分自身がそういった環境に立たされていないせいかもしれない。
「でも、まじで危険な状態になったら、首に縄つけてでも連れていく」
 中河はそう言って、何度か頷いた。それにはキョンも諸手をあげて賛成した。
「中河みたいなやつが、あいつを好きになってよかったよ。しかしおまえは、よくよく恋愛運のない男だな」
 考えてみれば、片思い相手が恋人に痛めつけられているのを傍観するしかないというのは、このうえなくつらいことではないだろうか。キョンは中河の心中を思うと、やるせなくてたまらなかった。
 しかし当の中河はそんなこと気に病む様子も見せない。内心はどうだか分からないが、もしかするとあまりに片思いばかり繰り返していると、失恋の痛みに耐性がつくのかもしれない。
「キョンにだけは言われたくないぞ。おまえの変な女好きに比べりゃ、俺なんて可愛らしいもんだ」
 人好きのする笑顔を浮かべ、中河はそう憎まれ口をたたいた。
「噂に聞いたが、高校のときも変わった女に入れこんでたらしいじゃないか。その女とは今もうまくいってるのか? 長門さんとも、まだ会ったりするのか」
 どこで聞いてきたのか、その根も葉もない噂は、キョンを急激に現実へと引き戻した。心の準備なくSOS団の話を振られると、未だにキョンはしどろもどろになり、まともに受け答えができない。
 そんなキョンを見て何か思い至ったのか中河は、悪いことを訊いた、といいたげにバツの悪そうな顔をした。
「まあ、卒業して別々の大学行ったら、高校の友だちにはなかなか会わなくなるよなあ」
 取り繕うような中河の言葉に、結局キョンは返事ができずじまいだった。




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