古泉がこんな風に笑うのを、少なくとも俺は初めて目にした。どんな風かと、言葉で説明しようとしても上手く出来ない。それはいつもの胡散臭い笑顔のようにも見えるし、はたまた今にも泣き出しそうな顔にも見える。少し怒っているようでもあり、困っている風にもとれる。ともかく、全ての感情を混ぜこぜにしたような複雑怪奇な表情で、目の前の古泉は笑っているのだ。
そしてその顔のまま発した一言は、俺にも同じ表情を伝染させようとしているとしか思えない代物だった。
「どうも、僕はあなたが好きらしいんです」
俺は時が止まったかのように、口を開きっぱなしにしたアホ面を提げ、数秒かかって我に返ることが出来てからやっと、ひと呼吸置いて言った。
「冗談は寝てから言え」
「これが冗談ではないんですよ。困りましたねえ」
まるで家にネズミが出たんですよ、程度の軽い言い草で古泉が返す。
放課後の部室には現在、俺と目の前のふざけたこの男、それから居るのか居ないのか分からない読書少女の三人だけが存在している。お互いに一番心地良い距離をとりつつ、手持ち無沙汰に各々の時間を過ごしている最中だった。
長机を挟んで向かい合わせに座った俺たちの会話が聞こえているのかいないのか、少し離れた場所でひたすら活字を追いかけている宇宙人に助けを求めようと、俺はちらりとそちらを盗み見る。しかし当たり前だが膝の上に落とされた視線は、こちらを向こうともしなかった。
「長門さんも分かっていらっしゃるでしょう。どうしてこんなことになっているのか」
古泉が貼り付いた笑顔のまま、長門に弁を向けると、長門はやっとこちらに顔を上げたかと思いきや、僅かに顎を下げて、それから元の位置に戻した。
SOS団以外の面々では、頷きという行為かすら分からない程の、微小な動作である。
「涼宮ハルヒが望んだことだから」
それだけ言うと、長門は再び視線を下げた。
ハルヒが望んだのか。それは仕方がないな。などと簡単に納得できるはずもなく、俺はこれ以上は無理という限界まで眉間に皺を寄せると、そのまま古泉を睨みつける。
「いやいや、そんな目で僕を見られても困ります──仕方のないことなんです」
古泉はそう言って、にへらと笑う。それにしても、ああ、言いたくもないが──仮にも愛の告白を今しがた済ませたとは思えないほどの、古泉の落ち着きっぷりは一体何だというのか。まるで他人事だ。
「仕方ないじゃないだろ。ていうかお前は何をそんなに落ち着いている。もっと焦るとか照れるとかしろ。大体もってだな、何故にそんなことを望んだっていうんだ、あいつは」
今までも散々と迷惑を掛けられてきたが、もしも本当にハルヒが望んだせいで古泉がこうなってしまったというならば、これ以上の迷惑もないだろう。迷惑なんて生易しい代物ではない。人格の全否定、感情の操作なのだ。
ちなみにその迷惑女は最初にここに顔を出したかと思いきや、びくつく朝比奈さんの首根っこを掴んで文字通り引き摺りながら、ものの五分で勢い良く飛び出していった。何処へ、何の目的があって出かけているのか、それは誰にも分からない。涼宮ハルヒ本人以外には。
「まあまあ、これも彼女なりの葛藤の賜物ですよ。あまり受け賜りたくない物ではありますが……ねえ、長門さん」
古泉の言葉を受けて、長門が続ける。
「涼宮ハルヒのあなたに対する内面感情は複雑、わたしの解析能力では処理不可能」
一蹴である。確かに長門にハルヒの行動理念の欠片でも理解できていたら、こんなに無表情でしかも趣味は読書だけなんて性格ではなかっただろう。長門の台詞に、古泉はようやくいつものふざけた笑みを浮かべた。
「僕にはなんとなくですが、分かりますよ。どうして涼宮さんがそう望んだのか」
「なんだってんだ。説明してみろ」
古泉は顔の前で両手を組みそこに顎を乗せると、長机に乗り出すように前のめりになったまま話し始めた。もうすでに、目は笑っていなかった。
「涼宮さんは、あなたが他の女性──例えば朝比奈さんとか長門さんとか──と仲良くするのが嫌なんですよ。でもそんなこと彼女が面と向かって言うはずもないし、そもそもその感情自体を自身の表層心理で抑圧しているのです。まるでそんな気持ちを抱くことが罪だとでも思っているかのようにね。彼女は望んだんです、あなたが他の女性と親密にならない方法がないかと」
目の前の絡み合う指が、リズムを刻むように細かい動きを見せる。本当は苛々しているのだろうか。それとも、ただの癖なのかも知れない。
「それでなんだってお前が」
「そう、そこで僕の登場です。あなたが他の女性に気を取られない程の驚愕的な何か──それも恋愛方面の事象です、それが起これば、あなたは暢気に恋をする余裕なんてなくなるだろう、そう考えたのでしょうね。そしてその相手が男ならば、段階的に進むこともないだろう、そうとも考えた。何故ならばあなたは至極ノーマルな人間だからです。そして彼女は思う、例えば男性から告白されたならばどうだろう、あなたはきっと悩んで何も手に着かなくなって、長門さんや朝比奈さんに目を向けている余裕もなくなるはず、ってね。そしてあなたはノーマルなのだから、その男にあなたを取られる心配もない。どうです、なかなか面白い思考のトレースだとは思いませんか?」
「なんじゃそりゃ……意味が分かんねえ。大体俺に余裕がなくなったら困るのはハルヒじゃねえか。あいつはいつも、俺がSOS団に貢献してないと怒っとるぞ」
「ですから、それが葛藤なんです。彼女は幾つもの矛盾した感情を抱えています。例えば、本当はあなたにもっと優しくしたい、でも厳しくあたらないとあなたは真面目に事を考えてくれない、そういった矛盾をね。もし本当にあなたと二人きりになりたければ、いつぞやのごとく、閉鎖空間に閉じ込めてしまえばいいだけの話。でも彼女はここ数ヶ月ですっかり、一般的な常識に懐柔し、そこに自分を置こうと努力しているんです。健気じゃないですか。あなたの望む日常と、自らの望む非日常の間に挟まれて、涼宮さんの深層心理は混迷を極めているようですよ」
まるで詐欺師かセールスマンのごとき疑わしい事この上ない説明を終えると、古泉はふう、と一息吐いてから、組んでいた手を解いていつものポーズで肩を竦める。
「なあ……それはマジな話しか。長門と二人して、俺を担ごうとしてんじゃないよな?」
俺の目が余程、猜疑心をたたえていたのだろう、古泉は珍しく笑みを引っ込め、至極真面目な表情でこう言った。
「前に言ったはずです。ある日突然、妙な力が宿ったことを、僕は悟ったのだと。自らの気持ちの変革、そしてそれが涼宮さんの望んだことだと──僕には分かってしまうんです」
数十センチ先を無言で歩く、俺より少し──ほんの少しだ──背の高い優男の背中を見ながら、長い長い坂道を下ってゆく。もう既に下校中の生徒はまばらで、ゆっくりとカーブするまるで山の中腹のような道の途中、沈みかけの夕陽が眩しいほど目に刺さる。町中をオレンジ色に染める光は、例外なく古泉の頬すらも鮮やかに照らしていた。逆光のせいか、全く表情が見えない。一体どういうつもりなのか。
「なあ、」
俺の呼びかけに一瞬肩を揺らせると、古泉は振り向くまでの数秒で表情を組み立てたかのような笑顔を見せた。
「なんですか」
「さっきの話……俺にしちまったら、意味ないんじゃないか? 俺はもう、ハルヒのせいだって聞いちまったんだから、動揺もくそもないし、それじゃハルヒの思惑通りにならんだろ」
ハルヒがそれを望んだのは、俺の余裕を無くす為だと、目の前のこいつは言った。それならば、わざわざ種明かしをせずに、ただ──ああ言いたくない、ないが──俺を好きだとだけを伝えれば、俺は相当動揺しただろうし、思い悩んだろう。それこそハルヒの想像通り、色恋に現を抜かしている余裕などなくなったはずだ。古泉はいつでもハルヒの精神の安穏を最優先に考えてきた訳で、あいつの思い通りにならない事態を、自ら引き起こすとは思えない。それを踏まえた上で、やはりあの告白は解せないことだらけだ。
「フェアじゃないからですよ、僕だけが知っていることをあなたが知らないというのは。それにあなたが何かの弾みで真実に気付いたら、絶交されかねないですからね。僕としても、相談相手はいたほうが助かります。何せ、自分の想い人すら自分で決められないんですから──正直ちょっと辛いですね」
それはそうだろう。誰だって、今までの恋愛感情をリセットされて、これから誰それを好きになれと言われれば困惑するだろうし、こともあろうに、強制的に好きにならされるだなんて、どういう心理状態になるのか、想像もつかない。
「お前、今まで好きなやつとかいなかったのか。もしいたとして、その気持ちはどうなるんだ」
「それが、分からないんです。今朝起きたら、僕の今まで積み重ねてきたと思われる恋愛感情というのでしょうか、それが全く思い出せなくなっていて、その代わりにあなたへ対する恋愛感情を自覚したんですから。きっと、そっくり取って変わられてしまったのでしょう。僕が今まで誰を好きだったかなんて、涼宮さんは興味すらないでしょうね。あなたのそれを気にするのとは違って」
古泉の笑みはすっかり力を失っていて、幾らいつもへらへらといけ好かないやつだとしても、あんまりだと俺は思った。それに正直、ハルヒがここまでえげつないことをしてのけるとは思ってもみなかった。
世界を作り替えるのと、他人の感情を作り替えるのでは、どちらが罪深きことなのか、俺には分からない。
でも、なあハルヒ、人間の感情を操るだなんて、神様ですらやっちゃいけないことだと俺は思うぞ。
俺は目の前の、神様が他より愛情込めて作ったとしか思えない見目をした男に、遠慮がちに声を掛けた。
「古泉……まあ、なんだ、その、気を落とすなよ。どうせあいつが飽きたら元に戻るんだろう?」
俺の言葉に古泉は卑屈な笑みを浮かべる。いつもは腹立たしく思うこの顔も、今日ばかりは責める気にもなれない。
「僕の感情が元に戻る方法を僕は知っていますよ。教えてさしあげましょうか」
「……結構だ」
「冗談です。それに、その方法を取られると僕は困りますからね」
古泉が意味ありげな視線を俺に寄越してくる。非常に嫌な予感がする。こいつがこういうアイコンタクトを取る時には、ろくなことが起こらないのだ。皆まで言うな、古泉。しかし俺の願い虚しく、奴の口は止まらない。
「確かに作られた気持ちではありますが、この気持ちは偽物ではないんですよ。確かに僕のここにある」
とんとん、と、古泉は自らの左胸を人指し指で叩いた。ここ、とはつまり心臓を指差している訳であり、心臓とは人間の体に血液を循環させるポンプの機能を持った臓器で……ああ、こんなことを考えて現実逃避している場合ではない。いつの間にかわずか数センチの位置に古泉の顔が近づいており、俺がいつものように「顔が近い」と言おうとした所で、先に古泉の口が開いたのだった。
「僕はあなたが好きです」
「……それはさっき聞いた。理由もだ」
出来るだけ冷静を装っているつもりだが、どこまでこの余所行き一張羅を装えているのかは分からない。出来ることならすぐにでも普段着に着替えて叫び暴れたい所なのだが、古泉の余りにも真剣すぎる目が邪魔をする。さっきの告白時とは大違いじゃないか。あの時の余裕の笑みはどうした。もう怒りも呆れもしないから、もう一度あの顔を見せてくれ、頼む。
「それは無理な相談ですね。こう見えても、ものすごく緊張しているんですよ、今」
確かに古泉の手は、言われなければ気づかないほどではあるが、微かに震えていた。その手が、震えながら俺の両手を取った。何をするんだ気色悪い、そう口に出そうとして、言い淀む。そんなことを言える雰囲気ではなかったからだ。
古泉は今にも泣きそうな表情で、無理矢理口元を上げようとして、失敗していた。古泉ファンの女子が見たら思わず目を逸らしてしまうんではないかと思うほど、珍妙な顔になっている。これじゃあ折角の男前も台無しだな、と俺は考える。そうして結構冷静な自分に気づいて俺は心の中で自らを笑い飛ばした。
さて、そんな所にいきなり手を下に引っ張られたら、きっと誰だって今の俺のようになるはずだ。誰に前述の行為をされたかなんて分かりきったことなので割愛しよう。俺は「のわ」とか「うお」とか変な悲鳴を上げて前のめりに倒れ込んだ。そしてここで支えになるものと言ったら目の前に一つしかない。俺の顎は見事に古泉の肩の上に乗っかることとなった。曲芸師だってここまで見事に乗っからないだろう。
「…何をする」
俺の顔の位置からして、俺の声はそのまま古泉の耳元に直結しているであろうに、こいつはその問いに答えようともしなかった。手の震えがそのまま伝染したかのように、体が小刻みに震えている。震える位ならこんなことをするなと言いたい。
「おい古泉、」
幾ら人通りが少ないとはいえ、通学路の道程でこんな体勢を取っているところを誰かに見られたりしたら、余計な疑惑を持たれかねない。恐ろしい噂が流れでもしたら、俺は登校拒否を訴えねばならん。
「古泉、おい、いい加減に……」
すべてを言い切ることは叶わなかった。何故ならば、物理的に発声出来ない状況に追いやられたからだ。端的に言おう、俺の口が何かによって塞がれた。この何かが何なのかは敢えて触れないでおきたい。と言うか考えたくもない。一生に一度だって味わいたくない感触を、嫌でも意識させられているこの状況は新手の嫌がらせなのか。しかも長い。時間の流れを遅くする特殊な装置でも使ったのかと思えるほど、それは長かった。そんな長い時間口を塞がれて、当然ながら俺は息が出来ずにいた。もう限界だ、視界が霞んできた、と思った辺りで、俺はやっと我に返り、思い切り奴の背中を平手で叩きまくって、ようやくそれは口から離れた。
ぜいぜいと肩で息をする俺を見る古泉の頬は赤く上気していて、もしかしてそれは俺も同じなのかもしれない。想像するだに恐ろしい。心なしか顔が熱いような気もする。
「さきほど、あなたは言いましたよね。種明かししてしまったら、動揺などしない、涼宮さんの思惑通りにはいかないだろう、と」
そう言って、顔の赤い古泉は、にやりと口元をゆがめた。
してやられた。
「て、めえ」
「あなたを動揺させるくらい、容易いことです」
古泉はそれはそれは楽しそうに笑っている。さっきの小刻みに震える手のひら、あの表情、あれはなんだ、演技だったのか。だとしたら、こいつは相当の役者に違いない。『朝比奈ミクルの冒険 episode 00』で見せたあのふざけた大根演技は、役者ぶりを隠すためのものだったとでも言うのか。
しかしよくよく観察していると、古泉は明らかにおかしかった。首筋におかしなくらい汗をにじませているし、さっきから顔が赤らみっぱなしだ。後ろで組んでいる手のひらは、もしかしたらまだ震えているんじゃないだろうか。
俺は思い切り奴の腕を引っ張り上げた。古泉は驚いたように目をまん丸く見開いている。
「やっぱりな」
「何がです」
「お前も相当動揺してんじゃねえか」
強く掴んでいる俺の方にまで伝染しそうなほど、こいつの手は揺らいでいる。古泉はばつの悪そうな表情で俺の目を見つめながら、「当たりです」と呟いた。
「……正直、余裕がないんです。さすが涼宮さん、と言ったところでしょうか。こんなにも強い気持ちをあなたに抱くだなんて、想像もしていなかった。──僕は一体どうなるんでしょうね」
妙なほど早口で古泉はそう捲し立てる。まるで別人のようで、どうも本当に余裕がないらしいな、と俺は他人事のように考える。
そう、目の前のこの男は、まるで古泉ではない、知らない人間みたいだった。
古泉の手が、俺の喉元辺りに伸びる。体が、びくりと震えた。脂汗がつうと頬を伝う。
「怖いですか? 僕が。目の前の人間は、僕の姿形をした、別の誰かのようだと、そう思っていませんか。それは半分当たりです。僕ですら、僕が良く分からない。怖いんです。僕も、自分が、恐ろしいです」
そう言って古泉は、電池が切れたかのように、伸ばした腕を力なく垂らした。
古泉の悲壮な表情を見ながら、俺は思う。今日はなんだか古泉の初めて見る表情ばかり目にしている気がする、と。
そんな顔した古泉に、俺はかける言葉すら思いつかなかった。
無理をして、古泉は笑みを浮かべようとする。失敗しているぞ、なんて言えそうにもない。
「さっきは困るなどと言ってしまいましたが……もし、気が向いたら──僕を助けると思って、涼宮さんに優しくしてあげてください」
それでは、と小さな声が聞こえ、古泉は俺に背を向け歩き始めた。俺は口籠るように、努力する、と言ったが、多分聞こえちゃいないだろう。
なんだこれは。誰が与えた試練だ。古泉には悪いが、今、ハルヒに優しくするなんて出来そうにない。ともすれば、怒りをぶつけそうな勢いだ。いや、本当は、ハルヒが悪いのではないと分かってはいる。人間誰しも考えることを、普通に考えているだけなのだ。悪いのは、ハルヒに妙な力を与えたやつ──そんな者がいるのかは分からないが、いるのなら──そいつが憎たらしくて仕方がない。
夕日がすっかり沈みきって真っ暗になった坂の途中で、俺は立ちすくんだまま、強く拳を握りしめた。
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