待ち合わせ場所に向かう道程、僕は三度ほど足をもつれさせ、一度は派手に転んだ。彼のメールは何よりも僕を動転させた。あれだけ自分から嗾けておいてこの様とは、彼もきっと鼻で笑うことだろう。
彼からメールが届いた後、僕はすぐに彼女に電話をかけた。
「もしもし、長門さんですか」
電話越しにしばらくの沈黙が訪れる。いつものことなので、僕は返事を待たずに先を続けた。
「お願いがあるのです。今からお会いできませんか」
電波の向こう側はまるで宇宙空間かと思えるほどの静けさだ。祈るような間ののち、彼女の吐息みたいな返事が微かに聞こえた。
「わかった」
駅前の小さな公園を待ち合わせ場所にして、僕は家を飛び出した。
彼女はきっと力になってくれるだろうという期待はすぐに確信に変わった。何故なら顔を合わせてすぐに、彼女はこう言ったのだ。
「あなただけ、それとも彼も」
彼女は僕の望むことを瞬時に言い当てた。それで僕は、彼女が何もかもを分かっているのだと知った。
既に日が落ちた辺りは薄暗い。街灯に照らし出された彼女の顔は、陶器のように真っ白く、まるで血の通った人間とは思えなかった。薄く開かれた口から、祝詞のように言葉がこぼれ落ちる。
「どうするかは、よく考えるべき。記憶のみの改変は、時間平面そのものの改変よりも危険を伴う。安易な濫用は推奨できない」
「危険とは、どのような?」
「人格の変異、それに伴う心因性異常行動を引き起こす可能性がある」
彼女は僅かに首を傾げる。真実なのか、暗に僕の行為を止めているつもりなのか、その言動からは読み取れない。
しかし僕に選択肢はなかった。
「僕だけで結構です。明後日の日曜日、時刻はそうですね、午前零時ぴったりがいい。月曜日から直前までの彼とのみ共有している記憶、及び僕の彼に対する感情を、改変していただけますか」
その短い間に、彼女が何を思ったのかは分からない。しかし飴玉のような光を宿した目に、僕は全てを暴かれる気がして、無言の時は随分と長い間に感じた。
「了解した」
スリープしていたコンピュータが再起動したかのごとく、平坦な声で彼女は言った。
途端、安堵感に溜め息がついて出る。
「ありがとうございます」
微笑む僕を、彼女は無表情に見上げる。彼女が公平なジャッジを下す裁判官に見えて、僕はまるで責められている気分だった。しかし、あり得ないのだ。彼女が他人を責めることなど、決して。
「明後日、あなたの指定した時間、またここに来て」
それだけ言って、彼女は闇夜に紛れた。足音も気配も、すぐに消えてなくなった。やはり彼女は、宇宙人というよりは、幽霊か幻のようだと僕は思った。
そうして次の日の(正確には次の次の日であるが)午前零時、僕は再びそこにいた。彼女も同じくだ。街灯の仄かな明かりのなか、ベンチに腰掛けていた彼女に、僕は小さく会釈をした。機械人形のように首を上下に動かし、彼女は音もなく立ち上がる。
「こちらの準備は問題ない。あなたは」
「ええ、問題ありません。お願いします」
「そう」
彼女は消え入りそうな返答の後、僕のほうへと両手を伸ばした。
「触れて」
言われた通り、彼女の手のひらの上に、自分のそれを重ねる。驚くほどに冷たい。僕は思わず身を震わせる。
つい数時間ほど前に、彼に最後の別れを告げに行った。今の僕は、もうすぐ消えてしまうのだ。しかし彼に対する感情のみを抽出して消去するという行為が、自分で頼んだものの、具体的にどういった感覚なのか僕にはまったく掴めそうにない。だから正確には僕が消えるというわけではないのかもしれない。それにきっと彼の中に、この数日間の僕は永遠に残り続けるだろう。たとえ幻という認識であっても、僕の感情は完全に消えてなくなることはないのだ。
今僕は、清々しいほどに真っ白な気分だった。もう何も気に病む必要はない。僕は役目を果たした。この僕の中に蠢く気味の悪い感情もすべて、今際の際に消えてしまうのだし。
彼は無責任だと怒るだろうか?
本来ならば今日は日曜日、彼と会う予定もなく、彼が頭を落ち着けるだけの猶予が一日あるはずだったのだが、それも涼宮ハルヒの気まぐれにより失われた。僕はすっかりと忘れて気楽なものだが、記憶が残されたままの彼は、そうはいくまい。
さっきまで見ていた彼の表情を思い出す。不安げで、今にも泣き出しそうな顔。初めは信じていないようだった。彼は僕の嘘に気づいたのだろう。実は曲がったことの嫌いな彼のことだ、きっと僕を軽蔑している。それでも、僕は嬉しかったのだ。彼が僕の思いを、本物だと認めてくれていたことが。
「長門さんも、僕を無責任だと思いますか? 彼にだけ記憶を残して縛りつけようだなんて、浅ましいと思いますか?」
「……そのような行為が正か誤か、わたしには判断できない。しかし、」
重ねた手に、僅かに力が込められる。そこには、それと分からないほどに小さな、しかし確かな意思の存在があった。
「選ぶのは、彼」
ぐらりと、足下が歪むような感覚に襲われる。いつの間にか周りの風景は様変わりしており、公園を照らしていた光も、古ぼけたベンチも、鬱蒼と茂る植え込みも、何もかもが液体のように混ざり合い、僕らを包み込むように渦を描いていた。胃の中が逆流しそうな感覚。猛烈な吐き気に襲われる。すでに上下が分からなくなっていた。手のひらにだけ、彼女のひんやりとした感触が伝わってくる。
「シーユーアゲイン」
彼女の口からおよそ聞き慣れない言葉が飛び出し、面食らった瞬間、僕の意識はブラックアウトした。