おかしいと思ったのだ。あいつが昨日夕方の時点で「また明日」と言ったことに、まあ多少は疑問を抱いたことも否めない。思えばあいつが家に来た時には、既に団員全員に連絡が入っていたのだろう。ご機嫌に自転車かっ飛ばしていた俺は、うるさく何度も鳴り響いていたであろう着信に気づかなかったという、それだけなのだ。
朝七時を告げる音がけたたましく鳴り響く。窓から差し込む光が否応無しに俺の目を開けさせる。きちんと睡眠を取れたのか自分でも判別できないほど、朝から俺は疲れていた。ひどい目覚めだ。胃に鉛玉でも詰められたみたいに、全身が重く気怠かった。その原因が、腹の上に乗っかっているシャミセンの重量のせいだけでないことなど、考えるまでもないだろう。
階下に降りると、母親の手伝いという名目の邪魔をしていた妹がこちらを振り返り、まるで化け三毛猫が喋るところを目撃してしまったというような、びっくり眼をしてみせた。
「キョンくんおはよー、どうしたのぉ? 目の下まっくろだよ」
妹よ、これはクマという生理現象だ、よく覚えておきなさい。俺が妹に訥々と睡眠の大切さを説いている合間を縫って、母親の小言が飛んでくる。またゲームでもしてたのか、だの、同じ夜更かしするなら勉強で寝不足なら文句もないのに、だのという至極尤もな意見を右耳から左耳へと素通りさせ、俺は黙々と味のしない朝飯を口に運んだ。
漕ぎ慣れた道を行く自転車のペダルすら、十キロウェイトを着けたステップマシンと化して俺の身体を痛めつける。貴重な休みを二日連続で潰された恨みつらみは、子ども電話相談室にでも訴えれば何らかの行動を起こしてもらえるだろうか。少なくとも一日目は自主的に選び取った予定とはいえ、その後の予定外の出来事は許容範囲外だ。
昨日古泉の口から、衝撃的というにはあまりにも曖昧で不可解な告白を聞かされた後、俺はしばらくかかってやっと、半ば呆然とした意識の中、携帯電話に連なった着信をチェックすることとなった。ちなみに十件ほどの履歴は全て同じ名を示していた。つまり涼宮ハルヒと。留守番電話には五件ほど、無意味なメッセージが録音機能を無駄に消費して残されていた。
「キョン、やっぱりあそこの本屋の店員怪しいわ。あれはきっと白鳥座α星からやって来た宇宙人に違いないわ! そこんとこ、きっちり確認しないきゃいけないと思うの。という訳で、明日は十時に北口駅前集合ね」
「ちゃんとメッセージ確認したでしょうね? 確認したら速攻連絡を寄越しなさい!」
「いい加減連絡してきなさいよ」
「もうあんた以外の全員から、承諾の連絡が来たわよ。あんた電話でも遅刻するつもり? 明日罰金だからね!」
「はーやーく!」
以上である。こんなしょうもないもんで電話会社のデータバンク容量を無駄に喰うとは、俺がハルヒに代わって謝罪の一つも入れたくなるってなものだ。これを耳に入れた瞬間の俺の気持ちも、推して知るべしだよな。溜め息選手権なるものが存在していたら、ぶっちぎりで優勝できるほどのそりゃあ大きな大きな溜め息を、俺は土曜日の終わり際に吐き出した。偶然目に入った時計の針は、十二の位置をきっかりと指していた。
「まじかよ……」
俺は明日また、世界一顔を合わせたくない人間と顔を合わせないといかんのか。恨むぞ、ハルヒ。そんなことを考えた昨夜の俺を、どうか責めないでいただきたい。
目的地の駅までもう少し、しかし近づくほどにどんどん足どりが重くなってゆく。早く行かなければ遅刻すると分かってはいるのだが、頭のどこかが前進を否定している。
大体、よく考えろよ、俺。別にいいではないか。全部なかったことになれば、古泉が俺に変な気を起こすこともなく、俺たちは気まずい思いをせずに済む。やつは平常のにやけ面を浮かべて、時折距離の測れない位置で、ハルヒ関連の相談事を持ちかけてくる──全部、元通りじゃないか。一体何が不満で不安だというのだ。俺は最初から、古泉が正気に戻ることを望んでいたんじゃないのか?
だのに、なんでこんなに──足が震えているのだ。
駐輪場に自転車を停めて、線路沿いの道を駅前に向かう間も、俺の足はがくがくとしていて、その上重石が乗ったみたいなのも変わらずだった。
駅前公園にすでに集っていた団員の中から、あの一際頭の飛び抜けた姿を見つけた時には、俺の緊張も最高潮に達していた。
俺の気を知ってか知らずか、古泉はいつも通りの曖昧な笑みで、こちらに向け軽く手を上げた。その前でハルヒが「遅いわよ!」と喚きながら仁王立ちしているのも、可憐なパステルカラーを身に纏い、ぺこりと頭を下げる朝比奈さんも、3Dアートを眺めるみたいにこちらを見ている長門も、一切目に入らず、俺は古泉の目をひたすら見ていた。目は嘘を吐けないからな。ばくばくとうるさい心臓を無視しながらも、果たして昨日古泉の言ったことは本当か否か、俺は確かめようと奴を見続けた。
すっかり元気なハルヒの小言を適当にやり過ごし、ハチャメチャな団長率いる総勢五人の一隊の最後尾を二人で並んで歩き始めてからも、俺はそうすることを止めなかった。
不躾な視線に最初は余裕の笑みを浮かべていた古泉だが、さすがに何かおかしいと気づいたようで、だんだんと怪訝な表情へと変わってゆく。しかし、それだけだった。少なくとも、ここ数日の異常さなど微塵も感じさせない、人畜無害そうないつもの古泉に見えた。
「……あの、どうかしましたか? 僕の顔に何か朝ご飯のオマケでも付いています?」
これが知らんフリだとしたら、アカデミー助演男優賞ものだ。古泉は普段から器用そうに見えて、意外と本心を隠しきれていない男である。しばらく観察した結果から、俺の脳みそが叩き出した答えは、
「やっぱり、忘れてやがるのか」
俺が小声で呟いた言葉を、その古泉は耳聡く聞きつけ、「何をです?」と、本当に不思議そうな顔で訊いてくる。
「お前、月曜からこっち、何か特別おかしなことはなかったか」
俺が前方を意識して声をひそめると、古泉の同じく囁き声が返ってきた。
「さて、特にはないように思えますが。涼宮さんも閉鎖空間も、ここ最近はおとなしいものですし」
世界がぐらりと歪んで見えた。足下がふらついたのは、何も寝不足のせいだけではあるまい。
「大丈夫ですか? ひどいクマですよ」
なんて無邪気で、無責任な話だろう。
本当に全部忘れてしまいやがったのか。俺には全部残しておきながら。言いっぱなしやりっぱなしで、後は何もかも俺に押し付けってことか。
おいおい、一人でお気楽なもんだな。
「うるせえ、この無責任野郎が」
情けないほどによれよれの俺を支えようと伸ばされた古泉の腕を、思い切り振り払う。古泉は一瞬驚いたように瞠目し、それから首を傾げて俺の顔をしかと覗き込んだ。その目の内にあるのは、どうやら俺への疑惑の表情のみで、あれだけ俺を苛ませていた、熱っぽい気味の悪い視線など、まるきり存在していなかった。
「これは重症のようですね……本当にどうされたのです? あなた相当おかしいですよ」
おかしいのはお前だよ。そう言いたかった。しかし幾ら喚いてたって、どうにもならないだろう。古泉の目に宿った感情──こいつの意味するところを俺は知っている。何故なら、つい最近同じような体験をしたばかりだからだ。
頭のいっちまった級友を、びびりながらも心配している目。あの改変世界で、朝倉や国木田が俺に向けていた目だ。今まで立っていたモルタルの地面が、得体の知れないゲル状物質に変化したみたいな不確定な世界、俺はまたそこに引き戻されたってのか。
いや、引き戻されたのは確かに俺の方か? 世界が変わったのは俺か古泉か、どっちだ。
その疑問はすぐに氷解された。本屋に到着後、各々が散り散りに探索という名の自由行動をとっていた時、ハルヒが寄ってきて俺に囁いたのだ。
「古泉くん、すっかりいつも通りじゃない。ほんとにあたしの勘違いだったのね。──で、今度はあんたがおかしくなる番?」
俺がおかしいかはさておき。ハルヒの台詞のお陰で、ようやく俺は胸を押しつぶそうとする不安から解放された。
俺だけ残して世界が変わってしまったのではない。変わったのは、古泉一樹ただ一人だ。
ほっとしたところで、沸々と怒りが湧いてでてきた。
あれだけ人のことを振り回しておいて、自分だけ悠々と日常に戻るとは、いい度胸しているじゃねえか、古泉。どうせなら俺の記憶も消していけよな。そうしたら俺ばかり苦悩せずに、お互い元鞘に収まれたんじゃないのかね。
大体だ、結局のところ原因はなんだったんだ。悪いが俺は古泉の戯言を全面的に信用するほど、お人好しでもバカ正直でもないので、あいつの高説ぶったハルヒ原因説など既に信じちゃいないのだ。
いや、そりゃあ最初は丸ごととは言わずとも、多少は信じている部分もあった。しかし重ねて言うが、古泉はポーカーフェイスに見えて、その実意外と本心を隠すのが上手くないのだ。だから俺は、一昨日ぶつけられた古泉の欲望──あいつは俺に触れたかったのだと、確かにそう言った──を、良い悪いはこの際横に置いておいて、とにかく、事実であったことを認めたいし、本人に認めてもらいたい。そうでないと、俺は襲われ損だ。人を襲っておいて、全部なかったことに、なんて調子の良いこと、法廷では即刻却下である。
それに昨日のハルヒの様子を見ちゃ、簡単に「お前が原因だろう」なんて考えられるはずがない。あれだけ古泉のことを心配していたんだ。俺だって、ハルヒを信用できずに、あいつの妙なパワーに対して怒りを抱いてしまったことを多少なりとも反省している。だから古泉、お前もハルヒを言い訳に利用したことを少しは反省しろ。
ハルヒの仕業じゃないとは思う。だからといって、古泉の記憶が事実全て消え去っているのは間違いないのだ。
ここへ来ての疑問は唯一つ──それじゃあ、「誰」がやったのか?
俺の視線は、自然にある人物へと向けられる。
斜め横の大きな書棚の前で、百科事典と見紛うほどの厚物書籍を立ち読みしている小柄な少女。本を閉じる大きな音が空気を揺らしたと思えば、そいつは三等星みたいな光を宿らせた夜空色の目に、俺を映し出していた。こちらを見上げて、長門は俺の発する一言を待っているかのようだった。
「長門、後で話があるんだが」
「わたしも」
間髪入れずの返答に、俺は妙な納得とともに、確信を抱いた。
やっぱりお前か、長門。
「解散後、お前のマンションに行っていいか」
「了解した」
短いやりとりの終了とともに、ハルヒの集合のかけ声が本屋内に響き渡った。端迷惑なやつだ。
いつもの喫茶店のいつもの席で、ハルヒは不機嫌だった。とは言っても、数日前の不機嫌さとは比べ物にならないくらい、ミニマムな不機嫌さである。
まあハルヒが浅はかだったといえばそれだけなのだが。
「なんでいないわけ? 繁盛時の日曜日に休みを取るなんて、ふざけた店員だわ」
ハルヒが宇宙人と目星をつけたらしき店員がなんと本日休みらしく、どこにも姿を見つけられなかったのだ。そりゃあその店員だって、ハルヒの都合で仕事をしている訳ではないのだから仕方ない。ただでさえ勝手に宇宙人という馬鹿馬鹿しいレッテルを知らぬうちに貼付けられているというのに、その上休暇にまで口出しされちゃ堪ったもんじゃないだろう。
「自分の星にでも帰ったんじゃねえのか」
俺が気のない相づちを打てば、ハルヒはますます悔しそうに、
「それじゃあやっぱり、昨日のうちに話しかけとけばよかったわ! そしたら彼の帰省に付き合わせてもらえたかもしれないのに」
お前は宇宙人の嫁にでもなるつもりか。あまりの下らなさに言葉を失う俺、その横で困ったように眉尻を下げ、俺に囁きかけてきた朝比奈さんはといえば、
「ここにはTFEIはいないはずなんですが……もしかして新たな勢力でしょうか?」
などというボケなのか天然なのか分からない突っ込みどころ満載の未来人発言をかまし、そのまま視線を前に移すと、これまたエスパー少年古泉が微苦笑をたたえながらホットオレをすすっており、その隣でまさに宇宙人である長門が、買ったばかりの本をめくりながら、無言でアプリコットティーを啄んでいた。普通に考えりゃ思わず吹き出してしまいそうな光景である。
しかし今は俺だって、この集団の異質さ加減を思いつきもしないほど気を取られている事象があるので、安易な突っ込みの言葉は浮かんでこなかった。そんな訳でこの混沌とした空間を放置したまま、本日の宇宙人捕獲ツアーも無事終了を迎えそうだ。
「それじゃ、今日はこれで解散! 今度あの店員見かけたら、絶対声を掛けることね!」
怒り肩をますます怒らせ、ハルヒは駅の入り口へと吸い込まれていった。残された団員四人も、誰からともなく本日終了の言葉を告げ、なんとなく散らばることとなる。俺も、さて帰るフリして長門の所へ行かねば、と解散場所を後にしようとしたところで、ふと視線に気づいた。振り返ると、古泉が魂の抜けたような顔でこちらをぼうっと眺めている。なんだ、またおかしくなったのか?
「なんだよ」
これ以上こいつに振り回されたくない気持ちもあって、わざとぶっきらぼうに声を荒げると、古泉は我に返ったように目を見開いた。少しの間視線をさまよわせていたが、そのうち首を傾げ考える仕草を始める。まるで自分が何故俺を見ていたのか、分からないといった風に。しかしながら古泉は考えあぐねている様子で、その表情はすぐに諦めに似た笑顔に変わった。
「すみません、何か、あなたに言わなくてはいけないことがあったような気がするのですが……忘れてしまいました。そのうち、思い出したらお伝えします」
思い出すことなんてあるのか? 俺は疑問に思ったが、口には出さなかった。
とにもかくにも、長門に話を聞かなければ、何も分からない。
解散から三十分後、俺は見慣れたマンションの前に立っていた。エントランス前のパネルで708号室を呼び出す。さすがに手慣れたもので、考えなくても手が動くほどだ。短い応酬ののち、すぐに自動扉が開き、俺は足早に目指す階へと歩を進めた。
「入って」
扉を開けた無表情な宇宙人は、無表情な声でそう言うと、音も立てずに中へと引っ込んだ。毎度のことなので遠慮なく上がらせてもらう。こないだ過去の自分を救いに行った時以来だから、何週間ぶりかな。友だちの家にだって、そこまで頻繁に出入りしないぞ。この部屋は俺にとっちゃ既に、救いを求めて転がり込む教会みたいな存在だ。
殺風景な部屋の真ん中に鎮座するコタツに二人して差し向かい、真剣な顔を突き合わせる様は、考えるだに滑稽である。差し出された湯のみに手をつけることなく、俺は口を開いた。
「さっそくだが長門、古泉の記憶喪失はお前の仕業か」
「そう」
分かっちゃいたことだが、なんというか、信頼していた人間に裏切られた気分だ。事実を突きつけられ、もっと腹立たしくなりそうなもんだが、それよりも俺は喪失感というか脱力感というか、そういった空虚な感覚に包まれていた。いわゆる、呆然だとか、ショックを受けた、などと形容される状態である。
事実裏切られたといえるのだろうが、こいつらにだって言い分はあろう。怒ったり悲しんだりするのは、全てを聞いてからでも遅くない。
「全部お前らの仕組んだことなのか」
「正確には、古泉一樹と彼の所属する『機関』の実験に、統合思念体とわたしが協力をしたことになる。彼らの実験とはつまり、あなたを利用して涼宮ハルヒの精神的な向上をはかるための、」
「そんなことはどうでもいい、つうか聞きたくもねえ。大方その実験の内容とやらも想像できる。聞きたいことはただ一つだ。あいつは自ら望んで、記憶を消したのか?」
ほんの一瞬、長門がためらいを見せたように思えたのは気のせいか。数秒のタイムラグの後、長門は答えた。
「そう」
無意識に溜め息が吐いてでたのだろう。長門は急須を持ち上げ、まだ全く中身の減っていない俺の湯のみに、茶を注ぎ足した。こぽこぽと、熱い湯の注がれる音が無音の室内に響く。
「ただし、わたしは彼の記憶を消去した訳ではない」
「……どういうことだ?」
「わたしは改変を行ってはいない。ただ、彼の中の当該記憶を抽出しアーカイブ化したそれに圧縮をかけ、多重プロテクトを施した。その上で当該データへのアクセス経路にロックをかけているだけ。解除キーを入力すれば、記憶の解凍が可能。彼は改変を望んだが、それは危険と判断した」
半分くらい何を言っているのかよく分からんが、要点だけは理解できた。
「つまり、思い出させることはできるのか」
「可能」
その答えに、俺はすっかり肩の力が抜けた。ずるずると、そのまま背中から倒れてしまいそうなくらいだ。俺はやっとこさ湯のみに口をつける心の余裕ができた。既に温くなってしまった煎茶を飲み干してから、随分と喉が渇いていたことに気づいた。
「そうか。なんだ、そうか。完全に消えちまった訳じゃなかったのか……。改変が危険ってのは、どういう意味なんだ?」
「厳密には、わたしが行えるのは完全なる改変ではなくただの情報操作。それにしても一個人の、しかも短期間の記憶のみを操作することは不可能に近い。内にある膨大な記憶を全て参照し、周囲の事実関係と辻褄をあわせるのには、相当の時間とエネルギーを要する。わたしが短時間で操作できるのは、表層の記憶のみ。しかし例えば改変された記憶と周囲の記憶に誤認が発生した場合、それが矮小の齟齬でも、彼の精神に何らかの影響を与える。その影響が引き金となり、精神異常を引き起こすことは充分考えられた。今回はデータ自体を消去していないので、無意識的にアーカイヴ検索した上で、自発的に誤差を修正できるはず」
正直、ちんぷんかんぷんだ。俺の脳は理解することを放棄した。結局改変だか情報操作だかは行われなかったのだから、危険要因など知っても無意味だしな。
「まあいいや、それで、どうすれば記憶が戻るって?」
「──どうして彼の記憶を戻す必要が?」
どうして。さて、どうしてだろう?
俺は瞬間考えることも忘れて、呆けるしかなかった。長門が質問返しをしてきた意外さ以上に、長門の質問の意味を、上手く捉えることができなかったのだ。
結構な時間を有して、俺は思考の海を彷徨った。古泉の記憶を戻す必要。そりゃ、巻き込まれた俺ばっかりが思い悩んでいながら、当の本人が記憶をすっ飛ばしてなんでもない生活を送っているのに、単純に腹立っているからであろう。張本人であるお前もちっとは悩み苦しめと、俺は古泉に対して思っているのだ。
きっとそれ以外に意味はないし、考える必要性も思いつかない。しかし。
「よく考えて。記憶の復旧後、彼をフォローする術を持たないのならば、安易に彼の記憶を戻すべきではない。発展性が認められない。今回彼の取った一連の行動には、統合思念体もあまり良い印象を抱いていない。彼の実験が成功だったとは必ずしも言えないから。彼がもしまた別の方法で以て同様の行為を繰り返すことになれば、涼宮ハルヒに過剰な影響を与える可能性がある。以前起こったような世界消滅の危機はこちらも避けたいと思っている。本来ならば現状維持が望ましい。しかしあなたが強く切望するのならば、わたしは彼の記憶を戻す方法をあなたに伝えようと思う」
俺は言葉を無くして黙り込んだ。長門の目に反転して映る自分の姿を眺めながら、どうしたものかと、長門の台詞とともにこれまでの数日間を顧みる。
古泉の記憶を戻すということは、同時に俺に抱いているらしき不埒な感情も一緒に付き戻ってくるってことだ。長門は多分、それを受け入れられるのかと、暗に問うているのだ。
きっと、受け入れることはできるのだ、と思う。悲しいかな、古泉がトチ狂ってやった数々の狼藉のお陰で、俺にはすっかりと、そっち方面の耐性が備わってしまったらしい。現にキスくらいでは気持ち悪いとも思わなくなっている。ベルトに手をかけられた瞬間はさすがにぞっとしたが、それだってきっといつかは絆されて、慣れてしまうのだろうな。自分のことは自分が一番分かっている。流されやすい質なのは自覚しているのだ。そうでなけりゃ、SOS団なんて気の触れたような学外活動にも、身を費やすことなんてなかっただろうし。
でも、それからどうする? なんとなく古泉を受け入れ、なんとなく行為を受け入れ、しかしそこから先に何かあるとは思えない。正直、お世辞にも世間様から歓迎されるような関係ではないし、将来性も何もあったもんじゃない。
ここは考えどころだ。中途半端な気持ちで古泉の記憶を戻しても、同じことの繰り返しになるだろう。不毛な膠着状態に陥って、前に進めなけりゃ後ろにも下がれない、という事態は避けたいものだ。
それに、肝心なことを忘れちゃいけない──俺自身の気持ちはどうなのか。受け入れるだけの関係など、いつかは破綻する。俺自身の感情のベクトルが古泉に対して向かうのか、しかも古泉から俺に向けているのと同じくらい強いものなのか、それが一番重要な箇所だ。
ふと顔を上げると、長門がこちらを凝視していた。何かを言いたげに唇を薄く開くが、俺の思索活動を遮ることをよしとせずと思ったのか、その状態のままストップしている。俺が促すように首を傾げると、長門はようやく話し始めた。
「あなたには考える時間が必要。今すぐに結論を出すべきではない。だから、彼の記憶アーカイブにアクセスするための解除キーだけ、先に伝えておく。解除の必要がある場合、次の方法を取ればいい。解除キーはあなたの持つ彼との当該記憶。それを共有させるためには、身体接触によるコネクトが必要。ちなみに血液接触が一番浸透速度が速いが、衛生面で推奨できない。次に速いのは経口による接触。大体二、三秒で浸透完了する。しかし手足等外部器官では数十時間かかる」
せっかく教えてもらっておいて悪いのだが、もう少し噛み砕いて説明してもらえるとありがたいな。俺の理解の範疇を超えている。今日は解説役もいないし、どうしていいのだかさっぱりだ。
俺の懇願に反応して、長門は斜め上を見つめたのち、再び口を開く。
その方法とやらを聞いて、今度こそ俺のシナプスの全活動が停止した。
「簡潔に言うと、あなたが涼宮ハルヒと閉鎖空間から戻ってきた時と同じことを、古泉一樹にすればいい」
──どうするかは、明日考えることにしよう。これ以上脳みそを酷使したら、きっとショートしてしまう。
ああ、しかし、まさかなあ。人生最大の後悔を、再び味わう羽目になるかもしれないとは。