恋は幻


終わりの日 1

 俺はどうしたらいいのだろう。なんて問いかけても、誰にも教えちゃもらえない。例え神様にだって仏様にだってだ。大体俺は身を以て知っている。神様は自分のことに一生懸命で、他人の話など聞いていないのだ。自分のことは自分でどうにかするしかないのさ。記憶でも失ってない限りな。
 嫌みを言い終えてすっきりしたところで、さて俺は考えなくてはならない。なんせ授業は退屈で、時間だけはたっぷりある。安眠効果抜群な古典の授業中と言えど、睡魔を誘う呪文のような徒然草に屈している場合ではないのだ。
 本日の脳内会議の議題は言うまでもなく、「古泉一樹」について、だ。
 まず一人目の俺が言った。「もうほっときゃいいんじゃないか」。すかさず二人目の反論が続く。「いやいや、それじゃ結局俺が一人で抱え込みだぜ。そんな不公平なことがあるか」。「しかし元に戻っても結局古泉は変なままなんだろう。別の意味でさ」。「そりゃそうだが……つうか、どっちがマトモな古泉ってことになるんだ?」。脳内二人の不毛な会話を、俺は離れたところからぼーっと聞いている。
 と、ここで三人目が登場し、俺に問いかけた。
「で、お前は古泉をどう思っている」
 さて、どうだかね。古泉は古泉であって他の何者でもない、なんて……同じようなことを半年以上前に考えた気がするな。あの時どういう結論に至ったかなど思い出すまでもないが、今回は前回ほど切羽詰まった状況ではない。それどころか、現状維持になんの問題もない。長門だってそれを望んでいたじゃないか。
「ほらやっぱりこのままにしとくのが一番だって」。「しかし釈然としないな」。
 一人目と二人目が、ベタに心の中の天使と悪魔状態で意見を対立させているのを、三人目が遮った。
「とりあえず、もう一度古泉に会って話をしてみたらどうだ。何か分かるかもしれない」
 ああ、それもそうか。なかなか建設的なことを言うじゃないか脳内の俺。なるほど、一人で思い詰めるよりも、当人を前にしたほうが幾らか進展があるかもしれない。
 抑揚のない教師の声が授業の終了を告げる頃、俺は頭の中で三人目に礼を言い、そのまま脳内会議をお開きにさせた。

 

 昼休み、鞄の中に母親作の弁当を忍ばせたまま、俺は手ぶらで食堂へと向かった。滅多なことがない限り弁当作りを放棄しない母親のお蔭で、俺はこの学校備え付けの食堂に来ることがほとんどない。多少の居づらさを感じつつも、きょろきょろと辺りを見回し、自腹を切ってまで昼を食いに来た目当てである、大概この場所で食事をとっているだろう人物を探すが、どうやらまだ姿を現していないようだった。ほっと肩の力を抜いてから、自分が相当気張っていたことに気づく。偶然を装う演技を頭の中でシミュレートするのも、思いの外疲れるものなのだ。
 まあしかし、こうやって食券の自販機の前で優柔不断をするのもオツなもんだと、新鮮な気分を味わいつつ、なかなか奴が来ないことにやきもきしながら、もしかして今日は購買のほうか、などと不安になっていたところだった。お目当ての人間が渡り廊下からやって来て、俺に気づかず真横を通り過ぎたのだ。そんなに自然にスルーされると、もしや無視でもされたのかと心配になるではないか。思わず俺は反射的に、奴の腕を掴んでいた。
「うわ、え、」
 古泉は一瞬驚いたように肩を揺らせ、しかし俺だと分かるとすぐに、あのシンボルマークみたいな笑みをたたえた。
「ああ……あなたですか。驚かせないでください」
 俺が変な表情を浮かべてしまっていたのだろう、古泉の隣にいたクラスメイトらしき男子生徒がけらけらと笑いながらこちらに向かって言う。
「こいつ道歩いてると、よく知らない女子に腕掴まれたり抱きつかれたりするんだよね。いい男はツラいよなあ。なっ」
 そのからかいの口調には柔らかな親しみが込められていた。止めてください、と言いながら、古泉もそれと分かってくすくすと可笑しそうな笑い声を零す。
 こうして見ると、古泉は本当にただの男子高校生だ。少なくとも俺といる時よりはよっぽど、年相応に見える。よもやこいつがクラスに馴染めていないのでは、といった俺の心配も、この様子を見れば杞憂だったか。
 瞬間、なんとも言えない寂しさに襲われた気がした。気のせいだと思いたかったが、じくじくとした胸の痛みは、なかなか消えようとしなかった。
「……どうしました?」
 古泉が心配げに俺の顔を見下ろしている。やばい、何故だか分からないが泣きそうだ。早くここから立ち去りたくてたまらない。俺は急いで食券を購入し、なあなあに挨拶を済ませ、逃げるように注文受け取り口へと向かった。
 なんなんだ、全く。これじゃあまるで、一昨日までの立場がひっくり返ったみたいだ。古泉は既に俺への執着心を忘れてしまって、今では俺の方が余程、古泉に頭の中を侵食されているに違いない。

 注文したものの、すっかり食べる気を失ったカレーライスをぐちゃぐちゃと混ぜていたら、頭の上から甲高い声が降ってきて、俺はついと顔を上げた。
 目の前に、涼宮ハルヒが立っていた。手にした盆の上には、本日のオススメAランチときつねうどんとスペシャルプリンが存在感鮮やかに鎮座している。見ているだけでげっぷが出そうだ。思わず顔を顰める。
 ハルヒは一瞬なんとも言えない変な表情を浮かべると、おもむろに唇を歪めて、いたずらを思いついたような笑顔を俺に向けた。
「なによキョン、あんたが学食なんて珍しいわね。しかも一人? 友達いない訳? 寂しいやつねえ」
 言いながら俺の真正面を陣取るハルヒに、その言葉そっくりそのままお返ししたいね。いつも一人で飯食ってるのはお前のほうだろうが。
「あたしは一人で食べるのが好きなだけよ」
「だったら今日も一人で食っとけよ。俺だって本当は一人で食うほうが好きなんだ」
「別にあんたと一緒に食べようってんじゃないわ。この席はあたしのいつも座る指定席なの」
 そんな押し問答を繰り広げながらも、ハルヒは目前の、一人でとるには多すぎる昼飯を、あれよという間に強靭な胃袋に収めていく。
「熱いうちに食べないと、作ってくれた人に失礼だからね」
 悪かったな。それは混ぜ倒したせいですっかり熱を奪われ、ただの冷めた黄土色の物体と化しているカレーを作り出した俺に対する文句と受け取っていいのか。
「まあね。食べないならもらっちゃうわよ。勿体無いもの」
 あっという間に自分の皿を空にしたかと思えば、いかにも物欲しそうな目で、隣県の有名店で出されているようなルーと米の混ざりきったカレーを見つめてくるハルヒ。仕方なしに、俺は無言でそれを差し出した。何故そこで勝ち誇った笑みを浮かべるのかという疑問は、考えるだけ無駄である。こいつは他人が望み通りに動けば、例え裏にどんな思惑があろうとも、その行動は自分のために伴ったものだと捉えるのだ。
「ちゃんと食べないと、古泉くんみたいに大きくなれないわよ」
 余計なお世話だ。それに言っておくがあいつこそ、まともな食生活を送っているようには見えなかったぞ。と、そこでまたも古泉の家での出来事を思い出してしまい、黙りこくる俺。一方ハルヒは俺の様子を気にも留めず、ひたすら口と手を動かしている。食いながらしゃべるな。飯粒をこっちに飛ばすな。
「そうそう、古泉くんと言えば、やっぱりちょっと変なのよね。元気になったには違いないんだけど、なんか嘘っぽいっていうか……だからって別に嘘吐いてる感じでもないのよ。なんなのかしら、この違和感」
 相変わらず他人の変化に目敏い奴だ。その目敏さで周りをよく見れば、もっと展望の開けた未来が待っているかもしれないぜ。未知との遭遇とか新たなる冒険旅行とかさ。なんてことは死んでも言わんが。
「さあな、俺には普通に元気そうに見えたけどな。お前の気のせいじゃないのか」
 言いながら俺は、泥棒かスパイかといった風情で逐一周囲を見回した。万が一古泉が近くの席に座っており、今の話を耳に入れていたらまずいと思ったからだ。
「そうだといいんだけど。あんたもなんかおかしいし。なあに? 悩みがあるんならあたしに相談しなさいよね。胡散臭い占い師に大金注ぎ込むより、よっぽどあんたのためになる進言が可能なんだから」
 全くありがたくないお気遣いありがとうよ。しかし目をキラキラさせながら、さあ相談しなさいと言わんばかりに胸を張るハルヒに、よもや断りの一つも入れたとしたら、さてどうなるかなんて安易に想像がつくよな。この状態をどう切り抜けるのが一番か、今すぐ魔女っ子長門に相談したいね、などと思いながら、
「……ただの考えごとだよ。問題のな、答えを考えてるんだ」
 そう発言したのは、ただの気まぐれに他ならなかった。まったくもって他意などなかったはずなのだ。
 ハルヒは意外とでも言いたげに瞠目すると、強気な視線を持った笑みで俺を見据える。
「あら、頭の体操ならあたしのほうが得意よ。ほら言ってみなさいって。数学? 物理? まさか哲学?」
「どれも外れだ。そうだな、強いて言えば、道徳かな」
「道徳ぅ? あんたが?」
 バカにするようなら相談せんぞ。
「バカになんかしてないわよ? ただちょっと意外だっただけで。で、どんな問題なの。さっさと言いなさいよ」
 既に相談を承る場末の占い部屋から、クイズ番組の回答者席へとシフトチェンジを図ったハルヒであった。俺は溜め息を一つ吐いて、しようがなしに相談すべきを捻り出す努力をした。何せ真実そのままを伝えるなどもっての外である、俺は婉曲にそれはもう跡形もなくねじ曲げて、それとなくの出題を計った。考えるのに暫くかかってしまい、ハルヒのやる気満々の顔がだんだんと不満に歪み出してからやっと、思いついたことを口にし始める。
「……そうだな、例えば、ある男がいたとする。その男はいつも大事そうにスイッチを抱えているんだ。誰かが、それは一体何のスイッチだと訊いても、男はこう答える。さあ僕は知りません。ただこのスイッチを大事に預かってくれと、ある人から頼まれただけなのです、とな。ある日お前は、そのスイッチが道に転がっているのを発見する。大変だ、きっと男が落としたものだと思い、お前はそれを男に届けようとするだろう。でもよくよく見たら、それがとんでもないものだと気づいた。どうやら核弾頭の発射スイッチのようなんだ。ああ、どうして気づいたかなんてことはどうでもいいぞ。とにかく、お前は気づいてしまったんだ。幸い男はまだスイッチを無くしたことに気づいていない。もしかしたら一生気づくことがないかもしれない。しかしもし気づいたらきっとパニックに陥るだろうな。さて、お前は拾ったスイッチを、男に届けるか? それとも、それとなく処分なりなんなりするか? ってな問題だ」
 ハルヒはぽかんと口を開けて俺の与太話とも思える出題を聞いていた。話し終えてもしばらくはそのままで固まっていたが、その内狐につままれたような顔で、眉間に皺を寄せ始めた。
「ううん、何よその変な問題。それってほんとに道徳? 哲学じゃなくて? 大体問題に矛盾がありすぎるわ。どうしていつも抱えてるものを失くしたことに気づかないのよ、その男。おかしいじゃない」
 ふむ、さすがに考えながら話していた弊害が所々に現れていて、非常に苦しい内容であることは否定できない。
「別にダブルミーニングもなけりゃ心理テストでもないぜ。深い意味も何もない。そして矛盾は気にするな。あくまでも問題は、その落とし物を返すか返さないか、の二択であって、男の心理やら行動理由は考察事項に含まれていない」
「ふうん、なんかふざけた問題だわ。まあいいけど……そうね、あたしなら、返すわね」
「なんでだ?」
 俺は意外に思って訊き直した。まさかそっちのほうが面白いからなんて言わないだろうな。
「違うわよバカ。だって、そのスイッチはその男のものでしょ。じゃあちゃんと返さなきゃ。それがどれだけ危険なものでも貴重なものでも、所有権を放棄しない限り、それはその男のものだわ」
 俺は何も言えずに、瞬きをひたすら繰り返した。なんともハルヒらしい、気持ちのよいくらい筋の通った解答だった。考える余地もない程だ。
 そこで俺は少しだけ、意地悪を言ってみたくなったのだ。
「じゃあ、本当は落としたんじゃなかったら? 実は男はそのスイッチが疎ましくてしようがないんだが、預けた人間との約束があって捨てる訳にも他人に譲る訳にもいかず、それで落とした風に見せかけて、歩行者の目につくように置いてたんだ。男は落としたことに気づいていない訳じゃない、本当は気づいていながら、気づかない振りをしていただけだ。誰かがそれを持ち帰ることを期待して。それでも、お前は届けるか?」
「──当たり前じゃない。そんなの関係ないわ。大体そんな犬捨てるみたいな真似許せない。責任放棄じゃないの。どんな理由があろうとも、自分のものは自分で責任持って処理しないといけないんだわ。それが大切なものなら尚更。だってスイッチはその男一人のものじゃないもんね。預けた人間とその男、二人にとっての重要なものなんでしょ」
 ハルヒは長舌を奮いながらも、ちゃっかり俺のカレーの皿を空にして、舌なめずりしながら満足げにそう言い終えた。どう、あたし良いこと言ったでしょ的な表情を浮かべながら。
 まあ、そうだな、ハルヒにしては悪くない……寧ろ大いに心を動かされたと言ってもいい。このハルヒの言葉は俺の背中を、僅か数センチではあるが、前に押し出したのだった。
 プラコップの中身を空にして、小気味良い音を立てると、ハルヒはやおら立ち上がり、じゃああたし行くから、と言い残し疾風のごとく立ち去った。あいつはなろうと思えば忍者にだってなれるだろうに、何故に宇宙人だの未来人だの超能力者だのにご執心なのであろうか。なんせ古泉の組織に神と崇められているほどだ、自分自身のほうがよほど面白い存在だってことに早く気づくがいい。
 ところでハルヒが残していった空の食器群は、おそらく俺が片付けねばならないんだろうな。

 

 放課後、渡り鳥が海を渡ることを遺伝子に刷り込まれているがごとく、今日も俺の足は無意識に、部室棟へと向かっていた。新旧館を繋ぐ外の渡り廊下の短い距離が、恐ろしく疎ましい。北風のアタックをもろに受けながら、やっぱり二階から渡ればよかったなどと後悔を抱いても時既に遅く、部室に着く頃には、俺の体はすっかりと凍えきっていた。
「あ、キョンくん。今日は早いんですね。涼宮さんは一緒じゃないの?」
 ドアを開けた途端、既に暖まった空気が内から流れ込み、それから朝比奈さんの小鳥の囀りのような声が耳に入ったところで、うっかりノックを失念していたことに気づく。もう少し来るのが早ければ、久々に生着替えを目撃するところだった。危なかった。いや、アンラッキーというべきか? なんてことを考えながら、俺は質問に対する答えを告げた。
「ハルヒのやつは進路相談という名の呼び出しをくらってますよ。またトンチンカンなこと言って、担任を困らせてなきゃいいんですがね」
 指定席に腰を落ち着け、鞄を机に放り出す。そうなんですかあ、と呟きながらお湯を湧かす朝比奈さんの後ろ髪が、動く度にぴょこぴょこと揺れて可愛らしい。いつもながら良くお似合いのメイド服姿での給仕も、すっかり馴染みのものとなっている。
 ああ、本当なら、朝比奈さんみたいな可憐でキュートで魅力的な女性のことを四六時中考えているのが、男の幸せってもんだろうに。なのになんだって俺は同性の、しかも俺よりも遥かにルックス的にも頭脳的にも運動能力的にも恵まれている人間のことばっかりで頭を占めてないといかんのか。いかんともしがたい事実である。
「長門さんはお隣さんに行ってるみたいだし……古泉くんも今日は日直でちょっと遅くなるって言ってました。お昼休みに学食で会ったの」
 ということは、暫くはこの超高次元空間を独り占めできる訳だ。たまには良いこともあるもんだな。ところでその学食には俺もいたはずなんですが、こっちは見つけてもらえなかったんですかね。
「ううん、だって涼宮さんと一緒だったから……」
 首をちょこんと傾げ、俺の目の前に湯のみを置きながら朝比奈さんは言う。見ていたなら、余計声を掛けて欲しかった。
 甜茶の礼を言うとともに朝比奈さんに笑いかけると、彼女もにっこりと微笑みを返してくれる。しかし不意に真顔に戻ると、困ったように自らの唇に指を触れた。
「キョンくん、なんだか元気がないみたい。疲れてるの? それともまた何かあった?」
 驚いたね。まさか朝比奈さんに挙動不審を指摘されるとは思ってもみなかったため、俺の時は一瞬停止した。しかしハルヒはともかく朝比奈さんにまで感づかれるとは、俺のポーカーフェイスは全くアテにならないな。やはり古泉みたくなんでもないように振る舞うなど、俺には不可能であるらしい。
「あの……あたしじゃ頼りないかもしれないけど、悩みがあったら相談してほしいな。……あたし、いつもキョンくんに助けてもらってばかりでしょう。たまには力になりたいの」
 朝比奈さんは真剣なまなざしをこちらに向けながら、昼のハルヒと同じよう趣旨のことを、全然違う言い回しで仰った。ちなみに具体的に何が違うかと言えば、優しさとか思いやりとかの含有率が桁違いなんである。そのいたわりの言葉に、心の芯がぽかぽかと温かくなったのは、錯覚ではないはずだ。
「ありがとうございます。でも朝比奈さんが気にされるようなことは何もありませんよ。俺と、もう一人の大馬鹿者の問題です」
「大馬鹿者? ……あっ」
 なんだろうこの、言わなくても分かってるのよ、そういうことでしょ、とでも言いたげな朝比奈さんの目つきは。盆を抱えて一人合点のいったような顔をしているが、間違いない、この方は大馬鹿者の心当たりについて勘違いをしていらっしゃる。
「うふ、だめですよう、二人の問題は二人で解決しないと」
 にこやかにそうおっしゃる朝比奈さんは、まるで同級生の恋を応援するおまじない好きの女子のような口調であった(これは比喩なのか事実なのか)。しかしこれまた本当のことを言う訳にもいかないので、俺は弁明せず話を合わせることにする。
「そんなもんですかね」
「そんなものなんです。だってあたしだったら嫌だなあ、自分の好きな人が、自分のことで人知れず悩んでるなんて。ちゃんと相談してほしいって思うけどな」
 さすが朝比奈さん、お優しい、なんてことを思いながら、俺はチラと空白の向かい側に目を遣った。
 当たり前だが無人である。
 俺はぼけっと考える。あいつもそうなんだろうか? でも自ら進んで戦線離脱するようなやつだぞ。ほんの少しでも悩みを分け合うような殊勝さを見せていりゃ、あいつも記憶を消そうなんて凶行に及ばずに済んだかもしれないのに。まあ最初からそのつもりだった可能性も否めないが……。
 そうして思い至ったことと言えば、朝比奈さんの意見は、まんま今の俺の気持ちを表しているという事実だった。
 ええと、なんと言っていたっけね、朝比奈さんは。自分の、好きな人だっけ? まあそれは置いておくとして、確かに俺は物凄く嫌なのだ。むかついているのだ。古泉が俺のことで悩んで、悩み抜いて、その結果起こっている今の事態が。しかしそれは優しさでもなんでもなく、まずもって俺のことを考えて煩う古泉を想像しただけで薄気味悪いし、大体俺のことは俺に訊くのが一番早いではないか。思い悩む前にまず俺に訊けと言いたい。例えば触れたりキスしたりすることに問題あるのか、とかさ。まともに答えてやれるかは保証できんが。
 そうさ、文句だって悩みだって幾らでも聞いてやる。だから忘れっぱなしは俺が許さん。
 心積もりはできた。しかし後先なんて考えていない。記憶が戻った後あいつがどう思おうかなど知ったこっちゃない。ただ、俺のできることをするまでだ。
 さて、いっちょやってやるか。
「わ、キョンくん、どうしたんですか」
 勢いづいて立ち上がった俺をどんぐり眼で見つめてくる朝比奈さんに向かって、ちょっとトイレに、などとおざなりに呟き、そのまま部室を飛び出す。往路で覚えた寒さなんてすっかり忘却の彼方だ。ぽかぽかと頬が熱い。自然と口元が緩んでゆくのが分かる。俺はずいぶんと気分が高揚していて、今ならなんだってできるように思えた。

 

 九組教室のドアを思い切り開けると、黒板前に佇んでいた古泉が、虚をつかれたような顔でこちらを見上げるところが目に入った。どうやら教卓で日誌を書いていたらしく、手にしていたシャーペンを取り落としてわたわたしている様が動揺を伺わせる。
「あの、どうされたんですか?」
 口調は落ち着いているものの、表情がなかなかデフォルト状態に戻らないのは、それほど驚愕しているからか。すでに暮れかけた空は鮮やかな橙色に、この教室と、古泉の顔を染め上げている。これほど何もかも赤ければ、きっと少々顔が赤くなったって分からないだろう。なんて好都合。まさに今の俺のために設定されたかのようなシチュエーションだ。
 俺は一歩、また一歩、ゆっくりと古泉に歩み寄る。金縛りにあったみたいに動かない古泉は、怪訝な表情を浮かべながら、縮まる俺たちの距離を次第に認識していくようだった。グラウンドから野球部の掛け声が、ボリュームを絞ったラジオみたく、曖昧に耳に届く。冬の寒さが、音を消しているんだろう。だからか、余計に自分の心臓の音がうるさく響いて聞こえる。
 俺は口を開いた。出てきたのは、自分でも意外な程、穏やかな声だった。
「なあ古泉。今から俺のすることに、お前が文句を言う権利はちょっとでも存在しないからな。文句は終わった後に幾らでも聞いてやる。だから今は黙って目を閉じろ」
 俺のぞんざいな言い分を、古泉は黙って受け入れた。記憶はなくても、罪の意識だけは残っているのだろうか。もしくは長門がプログラムの一つでも施しているのかもしれない。俺は顔を近づける。しかし、むかつくくらい長い睫毛だな。健康的な色とは言い難い白い肌には、ニキビの一つもありはしない。閉じた瞼が不安げにふるふると揺れているのが、また妙な色気を醸し出しているように思えて、なんかじっと見てるとおかしな気分になってきた。いかん、さっさとしないと決心が揺るぎそうだ。
「あの……?」
 目を閉じたまま、古泉が首を傾げる。何も答えず肩に手をかけると、その体を小さく震わせた。ああ嫌だ思い出すね、灰色の空間でハルヒと二人、青い巨人を前にした時のことを。あの時と違うのは、相手が俺よりも背が高いってところか。お陰で俺は見上げるような形で、目の前の男に唇を寄せる羽目になった。思いがけない感触に襲われただろう古泉は、分かりやすいくらいに狼狽える体を見せている。しかし未だ目を開けようとはしないのは、律儀というべきか。長門が言うには、浸透まで二、三秒だったか。一応のことを考えて、もう少し長めにくっ付けておくか。しかし絵面を想像すると恐ろしいな。夕暮れの教室で男同士二人で何をやってるんだか。お互い当事者で良かったよな、この情景を客観的に見 せられた日には、悶絶して死ねるに違いない。
 おおよそ五秒程度、それは一瞬の出来事だったはずなのに、体感時間は相当長く感じられた。
 薄く開いた目に最初に飛び込んできたのは、古泉の見開かれた目であった。
「……どうして……」
「思い出した……のか?」
「……思い出すはずがない……全部、消してもらったはずなんだ……」
 そう言うと古泉は臆面もなく泣き始めた。ぼろぼろと、その大きな瞳から涙が伝っては落ちてゆく。発作みたいな嗚咽をもらしながら、古泉は首を横に降り続けた。
「なんでなんだ、どうして、どうして僕は覚えてるんだ、そんなはずないのに、だって、長門さんが、」
「長門が教えてくれたんだ。お前の記憶は消去された訳じゃないってな。まあなんだ、今のが思い出させる方法だったんだが」
「そんな……ひどい」
「ひどいのはお前の方だろ。この週末から今日にかけて、俺がどれだけしんどかったと思ってる。一生の内で一番、他人のことを考えたぞ俺は」
「……どうして記憶を戻すようなことしたんです。このまま僕が忘れていれば、その内何もかもなかったことになるのに」
「お前はアホか。俺が覚えてちゃ意味ないだろう。そう思うならなんで俺の記憶も一緒に弄るよう長門に言わなかったんだ」
「それは……」
 そこで古泉は言い淀む。言え、言っちまえよ。今の俺は大概のことを許してしまえる程寛容な心の持ち主になってるんだ。
 なんでか分かるか? 俺は今、物凄く嬉しいんだ。古泉がなんもかもを思い出したことが、──古泉の目が、俺を見るその目が、ちゃんと、俺を求めているのだから。
 何よりも自分を必要としている目がある、これ以上に嬉しいことがあるか?
 なあ古泉、今のお前なら、分かりすぎるくらい分かるだろう。
 古泉は涙を零しながらはにかんだ。泣きたくなるほどそれは優しい目をして。なんだ古泉、お前そんな風に笑えるんじゃないか。
「……僕は、嫌だった……あなたが、僕の気持ちを忘れてしまうのが、嫌だったんです。あなたの中に、僕の気持ちが一生残ることを、僕は望んだんです。自分は忘れておきながら……僕を、ずるいと思いますか?」
 涙混じりの鼻声でそんなことを言う古泉が、愛おしくて仕方なかった。いつもの貼り付いた笑みも、自分を隠す固い殻も、全てを取っ払った古泉が、ここにいる。俺の前にいる。
 堪らなく、触れたいと思った。だから、力一杯俺は、古泉を抱きしめたのだ。
「ずるいよ、お前はほんとにずるい奴だ」
 驚いたように身を固くした古泉は、しかしすぐに強張りを解き、俺の体に身を委ねた。
「どうしてそんなにあなたは……優しいのです」ブレザーに顔を埋めているせいで、声がくぐもって聞こえにくい。
「優しくねえよ。こりゃ嫌がらせだ」
 そう言うと古泉は小さく笑い声をこぼした。
「……嫌がらせになっていません」
 そのまましばらく俺たちは抱き合って、たまに笑ったり、また涙を浮かべたりした。


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