どちらからともなく体を離すと、触れ合っていた部分がすうと温もりを失うのが分かった。未練がましくその体温を感じていたいと思うのは、夕日の魔力にでもやられているんだろうか。しかし既にオレンジ色の太陽は沈みかかっており、そんな言い訳が意味をなすはずもなかった。
古泉はといえば、非常に形容しがたいのだがあえて例えるならば、うっとり眺めていた幻覚が消えた直後のマッチ売りの少女のような表情で、ほんの少し下向き加減で突っ立っている。ずっと黙りっぱなしで。
おいおい、俺が決死の覚悟で決行した恥ずかしい一連の行動に、何か言うことはないのか。
「……部室へ、涼宮さんのところへ、戻りましょう」
まずもってそれかよ。ここへきて、古泉の口からハルヒの名前を聞くことになるとは。衝動的に苛立ちを覚えて俺は、古泉の言葉に答えぬまま、携帯電話をポケットから引っ張りだした。二つ折りを開き、電話帳を探る俺の動作を、古泉は訝しげに見守っている。
「もしもし、俺だ。あのな、古泉が倒れちまってな。……ああ、いや大丈夫だ。意識はある。熱もないし、疲れからだと思うんだが……ああ、そうだ。最近おかしいって言ってただろ。……うん、遅いんで心配になって教室まで見に来たら案の定だ。……え、ああ……そうだな、……いや女には無理だって。……ああ、俺が運ぶから。なんとか自力で歩けそうだし……悪いな……いやこっちこそだ。じゃあな」
会話の断片を聞く内に、みるみる古泉の目は丸く見開かれていく。電話の相手はすぐに予想がついただろう。口をぱくぱくと動かして、必死で止めようとしているところ悪いが、お前の今の顔つきかなり間抜けだぞ。まるで池の鯉じゃないか。電話を切った途端、古泉は眉間に皺を寄せ、なんとも情けない目つきで俺を睨みつけた。
「どういうおつもりですか」
答える代わりに、大きな溜め息を聞かせた。改めて向き直り、ふらふらと泳ぐ古泉の視線を絡めとる。目を逸らすな、今起こっていることが現実だ。これは夢でも幻覚でも、ましてや改変世界でもない。
「古泉。俺は今、この瞬間だけ、なんでも受け入れてやる。だからどうするかはお前の自由だ。今すぐ俺を部屋に連れ帰ってもいいし、俺を置いて一人帰るでもいい、お前の好きにしろ。お前がどうしようと、俺は何も言わない」
俺はそれだけ言って、古泉の目の前に右手を差し出した。強く目を瞑る。
俺は今、結果の全く読めない賭けを敢行している。この問いがとどのつまり、個人として俺を取るか、『機関』としてハルヒを取るか、という二択を意味していることくらい、古泉も分かっているだろう。
どうしようか、再び目を開けた時、この場所から古泉が消えていたら。正直言って怖い。底なしの恐怖心から伸ばした手が震えているのが分かった。しかし、今選ぶのは古泉の方だ。俺が選んだ答えは、古泉を受け入れるという、ただそれだけなのだから。
俺はずっと思っていた。受け入れるだけの関係など無意味ではないのだろうかと。しかし気づいたのだ。受け入れることが必ずしも悪いとは言えないと、俺はこの一年で学んでいたのではなかったか。SOS団でいることを受け入れた結果、俺は信じられないような経験と、それから今まで感じたことのなかった色んな思いだって、得ることができた。
そう、俺にとって受け入れるという行為は、決して消極的な意味合いではない。俺は古泉の全てを許容できるくらい、古泉を信頼していて、古泉を憎からず思っていて、──それから、それから。
手に乗った温かな感触に、全ての思考はそこでストップした。指と指が絡まり、強く握りしめられる。
「ほんとうに、いいのですか」
ゆっくりと目を開ける。目前の古泉は、真っ赤な顔をして、俺をじっと見つめていた。既に日は沈んで、空は薄らと群青色に変わってゆく途中だ。だから、顔が赤いのも、夕日のせいではなく──もう、言い訳はできない。するつもりもなかった。
「何度も言わせんな」
「今、正直、歯止めが効きそうにないんです。今まで必死に抑えてきたのが、一気に自由になったものだから……怖いんですよ、僕は。あなたをきっとめちゃくちゃにしてしまう──それで、きっとあなたに嫌われてしまう」
目を伏せる古泉のでこを左手のひらで押し上げ、無理矢理に上を向かせる。せっかくの男前が妙な間抜け面になって、俺に泣きそうな視線を寄越した。思わず笑いが零れる。なんだその変な顔は。本当に馬鹿な奴だ。
「──古泉」
「はい」
「俺を信じろ」
その瞬間、古泉は俺の手をひき走り出した。
どうやって帰路についたのか、全く覚えていなかった。まるで熱に浮かされたように、俺たちは手を繋いだまま走り続けた。今から考えると空恐ろしい。日の落ちきった時間帯でよかった。もし誰かに見られていたりしても、まさか俺たちの顔まで判別できないだろう。しかし万一妙な噂でも立てられたりしたらシャレにならんな。何せ想像しうる噂の内容は十中八九事実なんであるからして。
おぼつかない手つきで鍵を開け、二人して部屋に転がり込んだ瞬間、古泉は俺に力一杯飛びついてきた。バランスを失って背後に倒れ込んだことも意に介さず、そのまま強く抱きしめてくる。正直言って痛かったが、拒絶する気にはなれなかった。痛みなんかどうでもいいくらい、今俺は、古泉と触れ合っていたかった。
「古泉、」
声を掛けると古泉は、はっとしたように顔を上げる。そこにあるのは、また泣きそうな表情。抱きしめられる力が弱まり、俺はやっと痛みから解放された。
「すみません、」
「謝らんでいい」
これからもっと無茶をやるつもりなんだろう。その度いちいち謝られたりしたら堪ったもんじゃない。それよりも、なあ、
「もっと他に言うべきことはないのか?」
玄関先で座り込み、抱きしめ合う今の体勢では、お互いの顔を見ることができない。だから古泉がどんな表情をしているのか俺からは見えないし、俺がどんな顔で古泉の言葉を聞いているのかも、古泉からは見えない。
しかしそれでよかった。
「……好きです。僕は、あなたのことが、とても。ものすごく。ほんとうに。好きなんて言葉よりもっと……ずっとあなたとこうしたかった。抱きしめて、抱きしめあって、あの日のように無理矢理なんかじゃなく、ちゃんと、あなたの腕の力を感じながら、こうやってお互いの言葉をすぐそばで囁き合えるくらいの距離で」
俺は何も言わず、ただ背中に回した手に力を込めた。これが答えだ。古泉はふいに力を抜き、俺から体を引き離すとようやく顔を見合わせた。真剣な目がこちらを射抜く。薄暗い部屋で古泉の瞳だけが、水中のビー玉のように光を放っていた。思わず喉を鳴らす。
「あなたの全てに触れても……?」
こうやって改めて尋ねられると、恥ずかしくて仕方がない。何のために、最初に宣言したと思っているのだ。
「だからもう訊くなって。最初に言っただろう。お前の好きにしろ」
古泉の見せた躊躇いは僅かなものだった。あ、と思った時にはもう、俺は思い切り抱きすくめられており、その時点で神経回路のどこかは既に焼き切れていたのだろうが、そのまま耳元を古泉の甘ったるい声が掠めた瞬間、何もかもがどうでもよくなった。ぎりぎりの力でお互いを支え合いながら、惚けた頭でどうやったのか自分でも分からないままベッドに辿り着いた途端、俺たちは倒れ込み縺れ合った。
理屈なんてものはこの空間に存在していない。俺たちはお互いの存在を感じあうのに夢中だった。くっつけ合っている箇所はことごとく、火傷したみたいに熱を持つ。体中が熱くて、どうにかなりそうだ。
古泉が俺の名を呼ぶ。何度も何度も。耳慣れないその言葉、その声に、俺は信じられないくらい興奮していた。優しい声とは正反対の、ひどく乱暴な手つきにも。火照った体をなぞる古泉の手のひらは、やけにひやりと冷たい。くすぐったく、全身がむず痒く、しかしそれが、気持ちがいいというのとも違う。ただ、本能的に求めている感触なのかもしれない。
うろうろと彷徨う古泉の手が俺のジャケットをはぎ取り、ネクタイを解き、シャツのボタンを中途半端に外し、お陰で俺の姿は結構間抜けなものとなっているだろう。こんな姿の男に興奮する古泉はおそらく変態に違いなく、俺だってそうで、それ以前に俺たちは、言い逃れできないほどに変態的な感情で、放出できない熱を溜め込んでいる。
「ここ、」
古泉の目も俺に負けないくらい熱っぽく、いっそ分かりやすいくらい欲情していて、その手があまり触れてほしくない箇所に触れたので、俺は羞恥と籠る熱で頭がおかしくなる寸前だった。思わず呻き声を上げて首を振る。
「僕も同じです」
そう言って古泉の手が俺の手を誘導した。現実味のない感触に、くらくらと目眩がする。
「抜いてもいいですか」
だから訊くな。そして直接的な表現を使うな。俺は唇を噛みしめ、こくこくと頷いた。無理にでも口を閉じていないと、自身のプライドも尊厳も立ち所に消えてしまいそうだった。いつもより固さの残る笑みを口元に浮かべ、古泉は震える手で俺のベルトに手をかける。不意に強烈なフラッシュバックに襲われそうになるが、それよりも今、この特異な状況に漂う空気感が、それを押し止めた。あの時の恐怖心の代わりに芽生えたのは、不安を覚えるほどの期待感だ。ぞくぞくと背中を電流が駆け抜けた。
古泉の肩越しに天井を見上げれば、所在の分からない外からの光がゆらゆらと波打っており、翳りゆく部屋はまるで何かを暗示しているようであった。しかし俺は今背負うべきこともこれから起こるかもしれない事態も、何も考えたくはなかった。今、ここにはこの一瞬しか存在していないのだから、未来も過去も、どうだっていい。
ああ快楽に溺れるって、本当にあるのだな。
柔らかい猫っ毛が内腿をくすぐる。それ止めろ、と言おうとしてやっぱり止めた。一度好きにしろと言ってしまったのだ、俺に古泉を止める権利はない。それに、だから、つまり、今言葉を発すると、聞くに堪えないものが聞こえてきそうだったし。
水音のサラウンドが、静かなこの空間を揺らす。耳からの間接的な影響と、それから直接的な刺激が混じりあって、こんな感覚を俺は初めて知った。第一印象は、信じられん、といったところだ。一度体感してみるといい。本当に、信じられん、の一言しか頭の中に出てこないのだ。
「……声、聞かせてください」
行為の合間に喋られると非常に困る。何がと詳細には言いたくないが、とにかくそれだけは勘弁してほしい、後その期待には答えられない。しかしさすがに強く噛みすぎた唇が痛くなってきたので、代わりに手元にあった衣類だかなんだか分からないもの──多分古泉の脱ぎ散らかしたTシャツかなんかだろう──をくわえたのだが、途端、それは持ち主本人によって奪い取られた。間抜けな角度から古泉を睨みつけると、幾分余裕のなさそうな、しかしある程度普段通りの太々しさを取り戻したような微笑みが目に入った。
「あ、ほ、か、」
古泉のほうが余程息苦しくなりそうなことをやってるというのに、俺の喉が切れ切れに絞り出した声といえば、フルマラソンを完走したランナーでもこうはなるまいってくらいひどいものだった。
「うれしいです」
アホと言われて喜ぶなアホ。しかしそんな憎まれ口すら叩けない状況に自分を追い込んだ俺のほうがもっとアホかもしれん。後悔も否定もしないが、ただちょっと悔しさを噛みしめるくらい、許されると思いたい。
だって俺はもうあり得ないくらいアホなことに、古泉の行為に追ったてられて、そのまま馬鹿正直な反応を遂げてしまったのだから。
吐き出したそれを、俺から奪ったTシャツで拭うと、古泉はようやく制服のジャケットを脱いだ。
「暑いですね、」
そのままワイシャツのボタンを外し始める古泉の様子を、俺は腹の奥に堪ったみたいな倦怠感に、肩で息をしながら眺めていた。優男風の見た目とは裏腹に結構がっちりした体型だと、夏服の時期にも思ってはいたのだが、こうして露にされると、否が応にも圧迫感を覚える。俺がちょっと退け腰になったのを古泉は敏感に察知し、既に引っかかっているだけとなった俺のぐしゃぐしゃのワイシャツをゆっくりと剥ぎとりながら、言った。
「怖いですか?」
嘘を吐いても仕方がない、と思い、俺は小さく頷く。
「ここで止めても構いません」
今度は横に、首を振る。
「ここまできて、止めれるか」
俺は古泉のスラックスに手を伸ばした。ベルトを外すのに手間取る。古泉は明らかに動揺していた。あれだけ凄いことを人にしておきながら、自分は脱がされるだけでその反応ってのはいかがなものか。
外れたそれを引っ張り下ろそうとしたところを、古泉の手が制止する。見上げた古泉の顔は、ちょっとお目にかかれないような代物だった。
求める視線は、ダイレクトに欲望を訴えてきた。
「ほんとうに」
そう言うと古泉は俺をひっくり返し、膝に掛けた手にぐっと力を込めた。
そこから先は、正直最悪だった。痛いし、苦しいし、大げさでなく、死ぬかと思った。この歳になってあれほど泣きわめくことになるとは、思ってもみなかった。俺の姿を見て、古泉は何度も何度も謝った。すみませんとかごめんなさいとか、幾度となく形を変えた謝罪の言葉は行動と裏腹で全く説得力がなく、大体俺自身がスイッチを入れたようなものだから、まず謝られる謂れもなかったのだが、しかし俺は少しだけ、古泉の無茶を恨んだ。
古泉の部屋は静かだった。既に時間の感覚が消え失せているものの、鼻先にそこはかとなく夜中の匂いを嗅ぎとった。活動者の限られる時間帯の独特の空気に、たまに真夜中に目が覚めた瞬纏わりつく、自分が異邦人になったような違和感を、俺は覚えた。
ふと一昨々日来た時よりも、大分部屋が片付いていることに気づく。さすがにあんな塵溜めのような場所で生活できる人間などいないか。
記憶をなくした古泉は、散らかった部屋を片付けながら、何を思ったのだろう。
ゆっくりと寝返りを打つと、全身がじんと熱を放った。痛みはそこかしこに感じるが、どこが痛いのか具体的には分からない。視線を横に動かすと、気の抜けきった顔をした古泉が、焦点の合わない目をこちらに向けている。
「古泉」
名前を呼ぶと、数回瞬きを繰り返し、古泉は静かに目を閉じた。感情の読めない顔だ。じっと見ていると、ひそめられた眉間と閉じられたままの瞼が、ぴくぴくと痙攣しているのが分かる。
「昔話をしてもいいですか」
枕に頭を沈める古泉は、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうなほど疲れている風に見えた。俺だって疲れている。答えるのも億劫で、肯定も否定もしなかったら、死にそうな重い口調で、古泉は目を開け再び話し始めた。
「中学の頃、僕には付き合っていた子がいたんです。その子は家が隣同士で、幼なじみでした。小学校の頃からずっと一緒に遊んでいて、中学でも同じクラスになって、ほんとうに仲が良かったんです。しっかりしていて、ちょっと手厳しいところもあるけれど、優しい人だったな。四年前に僕が突然超能力者になった時も、彼女だけは僕を信じてくれたし、相談にも乗ってくれて、随分と助けられた。彼女がいなかったら、僕はきっと死んでいたでしょう。──でもちょうど三年の一学期だったか、僕は地元を離れなくてはいけなくなった。『機関』の言いつけですから、勿論従うより外なかった訳です。決まったのは突然のことだったし、両親以外には誰にも言うなと言われました。だから彼女にも本当のことは言えないまま、僕は彼女の目の前から姿を消したのです。さよならも何にも言えなかった。それまでだって何度も人との別れは経験していたし、自分ではそれほど人間関係に執着しているつもりもなかったから、平気だと思っていたんです。けれどそれから僕はますます情緒不安定になり、数ヶ月ほど、それはひどいものでした。泣いたと思ったら怒るしわめくし……森さんもよく我慢して付き合ってくださったと思います。時間を掛けなんとか立ち直ってから、僕は思いました。こんなに別れが辛いのなら、最初から仲良くなんてならなければよかった。僕がこの変な力を持つ変な人間である限り、大事な場所なんて作るものじゃないって」
まどろみの間を縫って聞こえてくる、長い長い古泉の昔話とやらに、俺は口を挟むことなくただただ耳を傾けていた。俺の知らない頃の古泉が持つエピソードを、どう思ったかは秘密だ。ただ俺はまだ、それを軽く受け流せるほど大人ではなく、相応の子供っぽい感想を抱いたことだけは言っておく。
「でも、困っているんです。僕はまた、失うのが怖い居場所を作ってしまった。どうしてもなくしたくないのです。僕は一時の感情に流されて、馬鹿なことをしてしまったのかもしれない。こんな風になることを、彼女が望むはずないのだから」
その古泉の言葉に、視界がさっと暗くなった気がした。
「──お前、後悔してるのか?」
微かに震えた声に、古泉は目を細める。
「している、と言ったら怒りますか?」
「当たり前だ。ぶん殴って今すぐ絶交してやる」
古泉は小さく溜め息を吐いて、再び瞼を落とした。口元には薄らと笑み。閉じられた目の縁に、きらきらと光るものが見える。古泉よ、お前はそんなにすぐに泣くようなやつだったか? いつだって飄々としていてもっと図々しく、笑顔を絶やさぬイエスマンだっただろう。猫被りなのは知っていたが、よもやどれだけどす黒いのかと予想していた本性が、これほど泣き虫の小心者であったとは。
「僕はもう箍が外れてしまった。これからだってきっと、あなたとこうすることを求めてしまうでしょう。しかし僕は、SOS団がなくなってしまうことを望んでいません。──僕は一体、どうすればいいのでしょう」
「そんなこと、自分で考えろ」
俺は視線の先にあるこじんまりとした額を小突いた。ああ、今更そんな非難めいた眼差しなど向けられても、全く気にはならないぞ。
「そんな、無責任な」
「何が無責任だ」
「あなたが僕を嗾けたのではないですか」
「選び取ったのはお前のほうだろう」
「……それはそうですが、」
「古泉、」
俺はその名をゆっくりと呼びかけて聞かせた。古泉の耳が俺の声音を、どのように捉えたかは分からない。しかし間際まで見せていた拗ねたような半眼を胡乱に眩ませ、まるで神様の姿を必死でその目に映そうとしているような、そんな表情を、目の前の古泉は浮かべていた。
「ハルヒがそんなことで世界を作り変えるなんて、お前はもう、思っちゃいないだろう。ただ、そうすることに慣れていないだけなのに、ハルヒを理由に、お前は逃げようとする。怖がるな。お前はもっと、好きなことをしていい。やりたいことに、いちいち許可なんて貰わんでもいいんだ。なあ、『機関』に命令されて言う『好き』なんかじゃなく、さっき俺に囁いた『好き』みたいに、好きだとか、嫌だとか、お前の本当に思うことを、たまには口にするべきなんだよ。お前は、」
古泉は、黙って俺を見る。言葉の意味を捉えきれずに、言葉の続きを待っている。
「超能力者でも正義の味方でもなくって、俺の好きな、お前は、『古泉一樹』だろう」
まだ古泉は俺を見ていた。何を考えているのか分からない呆けた表情に見えるが、俺には分かる。こいつは今必死に、俺の吐いた文章の意味を考えている。特効薬みたいなそれは、時間差で古泉の脳内に染み込んで、沈黙の時は五分程だっただろうか、ようやく古泉はどん臭い反応を示した。
「ああ、もう、また泣く。お前は、なんつう泣き虫なんだ」
「……これはあなたのせいです、ひどいな」
ずび、と、鼻を啜りながら、古泉は呟く。涙はこめかみを伝って、枕のカバーに吸い込まれていく。ぽつぽつと黒い点々が、古泉の頬の下辺りに、一つ一つと増えていった。
俺は痛む体に鞭打って、古泉の頬に手を伸ばした。涙を指で救い取り、それを口に含む。しょっぱい。人間の味がする。涙も、汗も、肌も、人間というのは、どこをとってもそんな味がする。
古泉は俺のその動作に、眉を顰めて目を伏せた。ああ、興奮している、と気づいたのは、目元が朱に染まっていたからだ。自分の抱いたであろう感情をごまかすように、古泉は少し大きめの声をあげる。
「大体、その『好き』は、僕の言う『好き』と、同じ意味なんですか?」
「そんなこと、自分で考えろ」
俺は自分の言った台詞と、その台詞に対する古泉の反応が可笑しくってたまらなくなり、堪えきれずに笑った。笑ったせいで体の節々が痛んだが、それでも止まらなかった。
「あなたは本当に……ひどい」
そう言いながら、古泉も笑う。その笑みは、昼間食堂で見た笑みにとても良く似ていて、ああ、こいつは、やっぱり十六歳なのだと、今更ながら思った。
夜は更けて、誰にも止められることなく、朝は訪れる。刻々と様変わる空の色、群青から濃い水色、それから潤んだようなピンクの色に。ここには、鳥の鳴き声も、葉の擦れる音も、新聞配達のバイクの騒音も、卵の焼ける音だって、何もかも存在している。不気味なほど静かな、あの灰色の空間じゃないんだ。
ほら、なんだって追いかければ、すぐに手が届くだろう。
「おはようございます」
「よう、」
ここは、そういう世界なのだから。