反吐が出る。
古泉一樹は、忌々しげに顔を歪めてそう思った。
それは自分自身に対してなのか、それとも自分自身を操る上位身分の、人格もないシュプレヒコールに対してなのか。
まったく、ふざけた茶番劇だ。
現在、彼の立つ味も素っ気もないその空間、長い長いテーブルに並んだ、表情の読めないのっぺらぼうの集団。古泉はその人物たちに一通り目をやって、ただ一言を発した。今の彼の立場では、その一言以外、発してはいけなかった。
「了承しました」
その日『機関』に呼び出されたのは、いつもの通りの定期報告のためだと、古泉は思い込んでいた。だから何の心の準備もしておらず、またその必要すら感じていなかった。
それが間違いのもとだったように、彼は今思っている。
最初から疑ってかかっていれば、その提案と了承の短い間に、相手を納得させる程度の反論の言葉を、数通りは思いつくことができただろう。しかし彼にはその時間すら与えられなかった。
彼が一つの命を受けたその瞬間、彼の脳は一切の思考活動を停止した。
今、彼の手元には、A4コピー用紙が数枚分ホチキスで綴じられた、指令書なるものが収まっている。その表紙にには飾り気のない文字で、こう書かれていた。
『涼宮ハルヒの精神活動向上のための実験 No.00267』。
誰もいない薄暗い自室で、古泉はそれを詠唱する。
「涼宮ハルヒの精神活動向上のための実験、ナンバーゼロゼロニーロクナナ」
なんとも馬鹿馬鹿しい響きに、自然笑い声がこぼれる。喉の奥を揺らし、彼は数分の間、発作的に笑い続けた。
「バカじゃないのか」
今まで何度、馬鹿馬鹿しいと思わされる事態に陥ったことだろう。そのほぼ全てが『機関』によるものであり、言い換えれば、『機関』の存在そのものが馬鹿馬鹿しい事態だという結論が、彼の心中にある。
しかして真実、彼が馬鹿馬鹿しいと思っているのは、涼宮ハルヒが神であり、そして彼女の無意識の意思によって作り出された『機関』の存在する、この世界そのものだ。
『涼宮ハルヒは神である、真か偽か』という命題は、超能力者として今に存在している古泉にとっては愚問であり、それを考えることはつまり、自身の存在意義について考えるに等しい。だから彼はその件に関して考えることを放棄しており、その代案として、人間原理だのクローズド・サークルの意義だのに、脳細胞の活動の大半を費やすことにしていた。
僕は哲学者ではないのだ、と彼は思っている。
静観を主としていた『機関』の中に、新たなる発想が生まれたのは、長門有希によってもたらされた世界の改変、その後のことである。
彼らは、涼宮ハルヒ以外が神になりえるという事実を改めて重要と受け止め、困惑し、恐慌した。まさかの伏兵に、彼らは些か冷静さを欠いていたと言えよう。
誰かが言った。
「涼宮ハルヒが力を失えば、全ては解決するのだ」と。
「かすめ取られる力さえ存在しなければ、つまり世界の改変はあり得ない」と。
そんなに簡単にゆくものか。古泉は口には出さずに考えた。彼は既に気づいている。彼女の世界がそう単純な構造では出来ていないということを。一年近く一緒にいたのだ。古泉の報告のみで涼宮ハルヒの人物像を構築している『機関』の首脳連中の内に、涼宮ハルヒと彼女の作った妙な団体について、自分以上に良く判っている者はまずいないだろうという自負が、彼にはあった。
しかし彼には何の権限もなかった。ただ、『機関』の上からの命令に従うより他にやりようがなかった。
「涼宮ハルヒの鍵となるあの少年をどうにか嗾け、涼宮ハルヒの精神活動の向上を狙い、ゆくゆくは彼女が力を失い、普通の人間として生活するように出来ないか」
それが『機関』の出した新しい答えだった。
──そのためには、かの少年が涼宮ハルヒの手に入るように仕向けるのはどうか。
──それは彼が、涼宮ハルヒと永遠の命運を供にすることと同義だ。
──彼には悪いが、人柱となってもらう他ないのでは。
──特に悪いこともあるまい。彼はどうやら涼宮ハルヒに対して、並々ならぬ思いを抱いているようだ。
このような議論を真剣に取り交わしているシーンを想像しただけで、古泉の頭の中は目眩を起こしたようにぐるぐると回り、次いで吐き気を催した。
方法については、古泉に一任された。どのような方法でもいい。どうにかして『鍵』を、涼宮ハルヒに嗾けろ。それは実験だった。
古泉は今まで感じたことのない怒りを覚えた。『鍵』である彼をモノ扱いすることにも、涼宮ハルヒを軽く考えすぎていることにも。
そうして彼は思う。
どうせなら、全部無くなってしまえばいいのに。
「好きにさせてもらうさ」
それは古泉の独白だ。
彼の感情はすでに凪を失い、波にたゆたう小舟のように、岸を離れ、これから何処へ向かうのかも判らない。
しかしただ一つ、言えることがあった。彼は、涼宮ハルヒの『鍵』を、