四時限目の鐘がかったるい授業の終わりを告げ、思い切り伸びをしながら、ああ腹が減ったなどと考えていたら、古泉が教室後ろのドアからひょっこりと顔を出した。口が「こんにちは」の発音を象っている。対して、俺はそれに片手を上げて無言で答えた。
昨日の約束通り、今日は二人で昼食を食べることになっていたので、弁当箱二つを提げて古泉の元へと急ぐ。間抜けにもぽかんと口を開きながら、手にしたそれを凝視している目に向かって、俺は叫びだしたい気持ちになった。事実少々叫んでいた。
「いや、お前が何を考えているのかは手に取るように分かるが、断じて違うぞ。これは俺が自主的に用意したものではなくてだな、」
説明をさせてくれ。これは俺の母親が勝手に用意したものである。昨夜、俺は母親に次の日の昼飯が必要ない旨を伝え、それは何故かと言えば古泉と一緒なのに一人で弁当を食うのもなんだかな、と思った訳で(古泉は大体学食か購買で済ませているようなのだ)、しかし母親は、それならば二人分作るから古泉くんに半分あげなさい、などと言い、朝起きたら実際二つ弁当箱が並んでおり、そういうことになったのだ。
そんな訳で他意はない。俺が歩きながら訥々と繰り返した説明に、眉を上げたり下げたりしていた古泉は、最終的に宗教画のようなアルカイック・スマイルを浮かべると、
「それはそれは……すみません。ありがとうございます」
と言って躊躇いつつそれを受け取った。どうしていいのか分からない、というような葛藤が瞳の中に見え隠れしている。こういうことに余程慣れていないのか。
「古泉お前まさかいっつも一人で飯食ってたり……しないよな?」
沈黙したまま、古泉は薄く微笑んでいるが、ちょっと泣きそうに見えるのは気のせいか。もしかすると触れてはいけないことだったのかもしれん。
「ところで涼宮さん、今日はいらっしゃっていますよね」
こいつ話を逸らしやがったな。確認するような口調の古泉の質問に、俺はチャイムと同時に教室を飛び出していったあの爆弾娘の今朝の姿を思い出した。
今日のハルヒは、普段よりも一層不機嫌丸出しの表情をたたえ、俺の後ろの席に鎮座していた。八年越しに空から魔王でも降ってきたのかと思ったが、それならこいつはもっと楽しそうな顔をしているだろうな。その感覚が理解できんが。
「よう、風邪はもう平気なのか」
声を掛けるとハルヒはマングースと対峙したハブのごとく、じろりと俺を睨みつけ、平気じゃないわよ、とぼそっと呟いたかと思えばいきなり大声になり、
「でも二日も休んじゃったら、SOS団が機能しなくなっちゃうじゃない! あたしあってのSOS団なのよ。あんたたち、昨日何した? どうせ何にもしてないでしょ。だめなのよ、あたしがいないと!」と、息継ぎもなしで一気に吐き出した。
なんという傲慢そして高慢であろうか。普段なら聞き流せるハルヒの罵詈雑言が、小さくとも今の自分には起爆剤になりかねない。俺は覚えた苛々をぐっと堪え、できる限りなんでもないような口調を作る。
「何もしないのはいつものことだろうが。お前がいようがいまいが、俺がいつもあそこでやってることといや、あの下らないホームページの更新か、朝比奈さん謹製の茶を啜りながら古泉と向かい合ってのボードゲーム対決くらいだ」
返し言葉に、ハルヒはますます不機嫌の度合いを増し、とうとう押し黙ったまま一言も発しなくなった。何がマイナスの琴線に引っかかったかは知らんが、そこまで面倒は見切れない。俺も心置きなくハルヒを無視することにし、やっぱり今日も駄目だったぞ古泉、と無駄に届く訳もないテレパスを送ってみた。もちろん返事が返ってくるはずもない。超能力者のくせに、ベタな超能力を何一つ使えないやつだ。
授業中はずっと、背中が焼けそうなほどの視線に苛まれ、おちおち居眠りもしていられなかった。
さて結局俺たちが北風吹きすさぶ屋上で昼食を取っているのは何故かといえば、二人して揃いの弁当を持って並んでいる所を誰にも見られたくなかったからである。
しかし寒い。手がかじかんで箸がうまく使えないほどだ。
俺はがつがつと弁当をかっこみ(寒いので早くここから立ち去りたかった)、古泉はゆっくりと味わうように食を進めている。
俺は今朝からの出来事を、食べつつ飲みつつ箸を振りつつ、かいつまんで説明した。ハルヒの不機嫌を増大させた俺の台詞を聞き、古泉は一瞬眉をしかめたが、すぐに微笑み仮面を着け直して、口をもぐもぐと動かし始める。
「そんな訳で、ハルヒの機嫌はなんかよく分からんが最悪だ。俺は今日一日あいつに関わらないことを決めた」
俺の宣言に、古泉はとうとう非難の目まで向けてきやがった。しかも器用なことに、笑顔固定のままだ。おいおい、お前は俺が好きなんじゃなかったのか。結局皆ハルヒの味方か。
「いえ……ただ、あなたはやっぱり自覚なしに無神経なところがあるな、と思っただけです」
「おい、喧嘩売ってんのか」
「とんでもない。涼宮さんには同情しますが……でも、僕はあなたを信頼していますから」
古泉はそう言ってにっこりと笑った。頼むから遠まわしにプレッシャーを与えるのは止めてくれ。苦虫を噛み潰したような顔で対応してやれば、その笑顔が微かに揺らぐ。
「すみません、冗談が過ぎました。……急かすつもりはありませんよ。だって僕は今、非常に楽しいんです」
肩をすくめる古泉を無視して、俺は残り少ない飯を胃の中に収めるのに集中した。しかし味なんて全く分からず、砂を噛んでいるような気分だ。
くそ、やっぱりこいつと昼飯なんて食うんじゃなかった。まとわりつく冷気にももう限界だ。俺は空になった弁当箱をハンカチで包むと、勢いよく立ち上がった。途端、重力に引っ張られるような衝撃を感じて、思わず後ろにつんのめりそうになる。
またか。
古泉が胡座をかいたまま、俺の手首を掴んでいた。
もちろん、俺の非難の視線など気にするこいつではない。
天骨のつむじが視界に入る。腹立たしいほどさらさらの髪が、吹きっさらしの風に乱されている。ばさばさと目にかかる前髪を気にすることもなく、古泉は立ち上がり、あやしげな笑みを浮かべながら言った。
「もしも、あなたが僕を好きになったら、世界は終わると思いますか?」
僅か数センチ先からの視線が強く刺さる。恐ろしいほど蠱惑的な目がそこにはあった。俺は訳も分からず目を強く閉じる。多分目の前の顔を、見たくなかったのだと思う。
唇に生暖かいものが触れた。これはきっと古泉の指だ。指でも嫌だが、そっちのほうが幾らかましだ。しかしそう思い込んでおきたい、という俺の希望は無惨にも打ち砕かれた。
まるで噛み付かれたような感触。違和感に思わず唇を開くと、そこに割って入るように、何かが侵入を果たす。何も考えるな、何も考えるな、頭の中で呪文のように唱える。一方で、そんなことをしても無駄だと、俺は分かっている。意識は敏感に、その動きを感じ取る。ざわざわと、背中から湧き上がるむず痒さを、俺は知っている。
それはゆっくりと歯の裏をなぞってゆき、最後に、俺の舌先をついと、なめた。
本能が、それを追いかけようとするのを、理性で必死に抑える。
早く離れてくれ。たまらない。
俺の願いを聞き入れてか、その瞬間、感触は尾を引いて離れていった。途端口元に涼しい風を感じる。
ゆっくりと目を開けると、奴の顔が視界に入った。言い表せないくらい、ひどい顔をしている。それでいてどうにも劣情を催しそうな目。唇がてらてらと光っている理由など考えたくもない。ボディ・ブローのような一撃に、俺はもう反撃する気力すらなかった。
寒さ? そんなものを今感じられるやつがいたら、そいつは余程脳みそがノータリンに違いない。それどころか、額にいやな汗まで浮かんでくる。ここ数日、俺の体温調節機能は狂いっぱなしだ。いや、狂っているのはそれだけか。
おかしいのはこいつか、俺か。考えるまでもない。
「古泉、お前は、おかしい」
「それは自分が一番よく分かっています」
「お前、本当に今、楽しいのか? 絶対に無理がある、こんな展開。誰が仕組んでいる」
「しかし事実、今、起こっていることです。孤島での狂言殺人劇とは違う。事実を楽しんで何が悪いんです? 楽しまなければやっていられないということが、あなたにはありませんか?」
古泉は薄く笑う。その目はまるで魔力でも持っているみたいに見えた。ただ光を反射していただけかもしれない。それほどに今日は晴れている。風の強い日だ。古泉の口が何かを告げている。呪文のような早口。それは長門の専売特許ではなかったか。古泉が今語っている何一つ、俺には理解できない。何を言っている。日本語を喋れ。本当に喋っているのか? これは俺の空耳なのか?
しんと静まったところに、急激に風の音が耳をかすめた。驚いて目を見開く。視界が揺れた気がした。
目の前には、同じような表情を浮かべた古泉が突っ立っている。その背景には青い空、そして古びた給水塔。
「大丈夫ですか」
古泉の口が動く。心配というよりは、驚愕の色を含んだ声。一体なんだってそんなに驚くことがあろうか。
それとも、俺もついに、おかしくなったのかもしれん。
「知るか」
「は、」
「さっきの質問の答えだ。知るかってんだよ。俺がお前を好きになることなんて有り得ない。だから答えは一生出ねえよ」
古泉は呆然と空を見つめている。これがショックを受けた顔というものか、と俺は標本でも眺めるみたいに目の前に突っ立ったままの男を見た。
足早にそこから立ち去りたいと思う。しかし意識しないと俺の足は動かない。一歩一歩、電柱みたいに動かない古泉の横を通り過ぎ、体を引き摺るように非常扉へと近づく。
振り向くと古泉の、風に散らかされている薄茶色の髪が見えた。
放課後、古泉は部室に顔を出さなかった。
ハルヒの機嫌はますます下降の一途をたどっている。
あの灰色の空間じゃ、そうとうひどいことになっているだろう。ご苦労なこって。
せいぜいがんばるがいいさ。自分で蒔いた種だ。
いや、蒔いたのは、俺か?