恋は幻


interval 2

「世界は改変などされていない」
 開口一番、彼女は言った。
「どうして嘘を吐きました」
 考えの読めない目だ。日差しを受けグロテスクなまでに輝く二つの眼球は、まるで宇宙の源のようでいて、その実何も映してはいない。
 一瞬異次元にでも飛ばされたような錯覚に陥ったが、ここは1年6組の教室前、それ以外のどこでもない。
「統合思念体は、あなたの行っている実験に対して興味を示している。彼の行動が涼宮ハルヒに及ぼす影響は、以前から重要な要素だと思われてきた。だからあなたの放った嘘が、観察対象にどのような影響を与えるのか、知りたいと思った。それだけ」
 機械音声のように無表情な声だ。しかし彼の前でだけは、この無機質さがほんの少しばかりやわらぐことに、既に僕は気づいていた。


 僕は未だに、彼女の行ったという『改変』に多少の疑いを抱いている。もう一人の僕のいる、もう一つの世界など、本当に一時でも存在していたのだろうか。彼の体験したという話の全てが、実は昏睡状態に陥っていた彼の見た夢で、長門有希はただその、妄言ともいえる発言に乗っかっているだけなのでは。もしくは、その彼の見た夢とは、彼女が作り出したものだったのかもしれない。
 彼女の希望を反映した、別世界の夢。
「あなたは、腹立たしく思わないのですか? 彼をだましている僕のことを」
 長門有希の目は揺るがない。彼女は僕の前で決して動揺など見せない。
 彼女の存在は反則そのものだ。彼女が少しでも己の責務を放棄すれば、彼一人自分のものにして、この世界を何事もなかったかのように消し去ってしまうことなど容易いだろう。
 彼女がそれをしないのは、未だ確固たる意思を持ち得ないからだ。まるで朝顔の芽のような小さな自律、それがやっと顔を出した程度でしかない今の彼女では、統合思念体の意思に反することなどもってのほかではないか。それこそ彼女の存在意義は、その瞬間に消滅してしまう。(しかし彼女の引き起こした『改変』が実際の出来事ならば、それは不完全とはいえ、一瞬でも実行されたことになる。)
「今、僕の意識と彼の記憶をちょっと弄れば、何も無かったことにできますよ。あなたになら簡単にできるはずだ。もし彼が真実を知れば、きっと傷つき、悲しみ、絶望するでしょう。僕に対して、そしてもちろん、あなたに対しても。それでもあなたは嘘をつき通せると?」
 意識して笑みを貼付ける。そうしないと負けしてまいそうだ。彼がいつか言っていた。液体ヘリウムのような目、か。実に言い得て妙だ。じっと見ていると薄ら寒くなってくる。
「わたしにはそのような権限はない。ただ、統合思念体の下した決断に従うだけ」
 彼女はぼそりと呟いた。予言者のように平坦に。予想しえた答え。僕の中では既に出ていた結論だ。あえて訊いたのは、彼女が少しでも動揺すればいいと思った、僕の嗜虐心からである。
「──あなたの来る五分二十六秒前、彼と偶然遭遇し、少しだけ話をした」
 今度は僕が動揺する番だった。ただし表には出さず、あくまでも冷静を装うことを忘れずに。
「そうですか、彼はなんと?」
「あなたのことを心配していた。あなたを治す方法はないかと訊かれたけれど、それは出来ないと答えた。あなたは正常で、これ以上治しようがないから。もちろん、真実は伝えていない」
 僕が正常か。長門有希の中では、改変されていない情報は全て正常と見なされるのだろう。しかし自分では分かっている。僕は今、正常とは言えない。もし僕の今の行動を、全て分かった上で見ている人間がいれば、間違いなく「狂っている」と思うだろう。何もかも、まるで矛盾にまみれている。
 僕はしかし、僕をうまくコントロールできないのだ。それでも何かをごまかすように微笑む努力をするのは、もはや癖としかいいようがない。そもそも彼女の前では、感情の抑制など不要なことだというのに。
「ご協力いただきありがとうございます、とでも言っておきましょうか。正直ここまでやっていただけるとは思わなかった。最初にあなたに話を振ったのは、賭けでした。あなたが何も言わなければ、実験は続行。真実を話されればそこで終了。まさかこのような結果になるとは予想外でしたが……ご好意はありがたく受け取らせていただきますよ」
「好意ではなく、興味」
 彼女がぴくりと、数ミリ単位で眉を持ち上げた。ほう、と僕は不思議に思う。今の言葉の何にそれほど感情を動かされたのか、ほんの少しだけ興味を惹かれたが、それもすぐに曖昧な感覚になり、やがて消え失せた。
「僕にはどちらも同じことです。気が変わったら、彼に本当のことを告げ口していただいても結構ですよ。どうせこんな実験、真剣にやるつもりもない」
 肩を竦めて自虐的な笑みを浮かべても、彼女は笑いも怒りもしない。そろそろ彼の、迷惑そうに歪められた、倦怠感あふれる表情が恋しくなってきた。
「そろそろ失礼しますよ。どうぞよしなにお願いします」
 彼女の首がかくりと前に倒される。僕は一礼して、その場を立ち去ろうと体をターンさせた。ふと気になってすぐに背後を振り向くと、彼女は既にそこにはいなかった。まるで瞬間移動だな、僕はそう考える。
 そういえば、と僕は、彼が改変世界での出来事を話してくれた時のことを思い出す。彼はそのことをまるで、もう無くなってしまった子どもの頃の遊び場を思い出しているかのように懐かしげに、そして少しの寂しさをもって、言った。
(長門がさ、笑ってたんだよな。ハルヒみたいな破顔したようなでもなくって、朝比奈さんのような柔らかい微笑みでもなくて、もちろんお前みたく器用でもない、初めて笑うことを覚えた子どもが照れくさそうに、はにかむような表情ってあるだろ、ああいう感じだった。)
 そんな彼女を僕には想像もできないが、彼女はそんな風に彼に笑いかけることを、今でも望んでいるんだろうか。
 そしてその世界の僕は、一体どんな笑みを浮かべていたんだろう。


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