恋は幻


4日目

 最近の自身の順応性の高さには毎度驚かせられるばかりだが、古泉の立ち直りの早さに比べればまだまだだな。今、俺は対岸の男に脱帽の思いなんである。
 向かい合う長机に広げられたオセロ盤は、古泉曰わく、原点回帰だそうだ。
「最近僕らはどうも装飾過多をありがたがりすぎているとは思いませんか。このあたりで一度シンプルの美しさを再確認すべきでしょう」
 モノポリーやトレーディングカードゲームのどこが装飾過多だと突っ込みたかったが、有無を言わさず緑色の盤面を持ち出す古泉に、それは無用だろう。間違いなくこいつはただ、オセロがしたかっただけだ。
 何故理屈をこねず、素直に「したい」と言わないのかね。
 さて、昨日のことを本日六限終業後まで引き摺っていた俺だが、先ほど部室のドアを開けた途端、聞こえてきた古泉の挨拶が余りにも平静極まりなかったため、さてどうやって無視してやろうかと考えていたというのに、思わず意表をつかれ、普通に「おう、」などと返してしまったのだった。
 その後ずるずるとなし崩し的に、普段通りゲームを挟んで日常会話を交わしている俺たちは、一体なんなのであろうか。
 この男さては二重人格なんでは、と思わず疑ってしまうのも、いたしかたない。
 それともこいつ、なにかあやしげな宗教でもやってるのか。
「なあ、『機関』ってのは実は、宗教か何かか」
 俺の半ば冗談めいた質問に対し、古泉はまるで新しい物理法則でも発見したかのような顔で、大げさに驚いてみせた。
「言われてみれば、当たらずとも遠からず、でしょうか。僕らにとってはそうですね、似たようなものかもしれません。ただいわゆる、一般的に宗教と呼ばれる思想と違うところを二つほど挙げますと、一つはお布施の必要がないことと、もう一つは神を全く信じていないこと、です」
 いつもながら冗長な上に簡潔的でない喋り口調である。
 ところで古泉の言うところの神様ってやつは、現在頬っぺたを膨らませながら、音楽室の掃除にいそしんでいることだろう。今日は長門も朝比奈さんもまだ来ていないが、女子勢が三人揃って遅れてくるとは珍しい。
「はあ、お前らん所の涼宮ハルヒ教祖様は今日も今日とてご機嫌斜めだぜ。昨日はさぞひどい閉鎖空間が発生したんじゃないかと俺は予想している訳だが、本当のところはどうだったんだ?」
 古泉の笑みがふと偽悪的なものに変わる。当たり前だと言わんばかりに。だがしかし、この件に関して、俺が責められる謂れはない。悪いのは昨日無断欠席した古泉である。
「それはもう、あなたの予想通りですよ。昨日現れた《神人》は普段よりも格段に強くて、倒すのに非常に苦労しました。お陰で今日は寝不足です。でもあなたの予想が一つ外れているとすれば、閉鎖空間の原因が、僕の無断欠席だけではないということですね。しかし過ぎたことはどうでもいいんです。原因がなんであれ、僕のすることに変わりはありませんから」
 しかしいつも思うが、よくこれだけ舌が回るものだ。ふう、とひと呼吸置いて、古泉は間髪入れずに続けた。
「それより僕は今、あなたと普通に会話できている事実に驚きを隠せません」
 全く驚いていない口調でそう言われてもな。
「それはこっちの台詞だ」
 俺は苦々しげな面持ちを作り、オセロの盤面に目を落とした。ただ今ゲームは半ばを過ぎた所、黒の優勢で進んでいる。言わずもがな、黒を持ち駒にしているのはこちらだ。
「お前が何でもなかったように普通に挨拶するもんだから、思わずつられちまったんだよ。昨日の今日で、お前、立ち直りが早すぎるだろう。『機関』ってやつは、マインド・コントロールの方法でも教えてるのか」
 古泉のうっすら浮かべた微笑みが憎たらしい。白面の駒が緑の盤に一つ載せられた。またお前はそんなところに考えもなしに置く。どう考えてもそこじゃあないだろう。まあ、わざわざ敵に秘策を教えるのは愚行というものだ。俺は黙っていた。
「うまく微笑む方法なら教え込まれましたが……って、そんなことは別にいいんです。僕はてっきり、もう二度と口を聞いてもらえないかと思って、今日一日戦々恐々としていたんですよ。それがあっさりと挨拶を返されたものだから、正直拍子抜けというか……」
「なんなんだお前は、俺に無視されたかったのか? お前はマゾか」
「違いますよ。ただ……安心しました」
 その微笑みも、どうせ『機関』に教え込まれたものなんだろう。どこまでも信用できんやつだ。しかし言い換えれば、微笑み以外の表情は、本来の古泉のものということか。ここ数日で初めて遭遇した古泉の表情あれやこれやは、確かになかなか見応えのあるものではあった。
「まあいいさ。俺としては古泉の珍しい表情が見れたというだけで、昨日のことは水に流してやってもいいくらいだ」
 後々ネタにするのも悪くない。コーヒーを奢らせるとか課題を写させてもらうとか、それくらいならできないこともないかもしれんし。俺の浅ましい計画に古泉がちっとばかし複雑そうな笑みを向けてくるが、この際気にしないことにする。
「──あなたはどうしてそんなに……、いえ、そう言っていただけるなら、僕としては万々歳です。中庭自販機のコーヒーでよろしければ、いつでもごちそうしますよ」
 また嘘くさい笑顔を貼付けながら、古泉は首を傾げた。

 団長さんの眉間の皺はここ二日ばかりで数倍に増えている訳であるが、その増量分の二十パーセントくらいはまあ、俺のせいだと認めてもよかろう。しかし俺ばかりが悪いのではない。俺はできる限り普通に、穏便に、何事もなく接しようと努力しているというのに、ハルヒのほうはといえば、つっけんどんだわ文句は言うはすぐキレるわで、どう頑張っても会話が成り立つとは思えない態度なのである。
 毎度おなじみパソコン付きの団長席に目をやると、机の主はものすごい勢いでこちらに睨みを利かせてきた。思わずすぐに目を逸らしてしまった俺を、しかし誰が責められよう。
「あのう……涼宮さん、大丈夫ですか?」
 麗しきメイドルックに身を包んだ朝比奈みくるさんが、湯のみを置きつつ心配そうにハルヒに声を掛ける。すると不機嫌きわまりない団長さんは、俺に向けていたきっつい目をそのままスライドさせ、それを受けた朝比奈さんが「ひっ」と小さく悲鳴をあげながら、肩を竦めた。
「ねえみくるちゃん、そろそろ水着写真集くらい出してもいいんじゃないかしら」
「えええっ」
 その瞬間、目にも留まらぬ速さで、ハルヒの剛腕が朝比奈さんのか弱き細腕をがっちりとホールドしていた。身を退いてももう遅い。朝比奈さんがハルヒの腕力に敵うことなど、長門が満面の笑みを浮かべながら「だいすき」と言う可能性並にあり得ないのである。
 イソギンチャクに捕食された小魚のごとく固まってしまった朝比奈さんを不憫に思いながらも、俺の本心としては、もう好きにしてくれよ、ってなもんだ。朝比奈さんすみません、俺にはちょっと止める元気がありません。
 しかし関わり合いを避けたいという願い空しく、朝比奈さんを伴ったままハルヒは次に、俺の目の前に立ちはだかると、手にしたデジカメを胸元にぐいと押しつけてきた。何の真似だこれは。
「キョン、あんたは写真係。ちゃんと声掛けて、みくるちゃんの気分を盛り上げるのよ」
 今日初めて声を掛けてきたかと思ったら、何を言い出す。見ろ、横で朝比奈さんが青ざめた顔して縮こまっているだろうが。
「勘弁してくれ。そんなセクハラまがいのことができるか。長門に頼んだらいいだろう」
 デジカメを押し返しながらそう反論したが、反々論が数倍になって返ってくることも予測済みだ。
「有希にそんなことできると思う? どうせ無言でシャッター切り続けて、おいしいシャッターチャンスを逃すに決まってるじゃない!」
「じゃあお前が盛り上げる台詞でもなんでも言ったらいいだろう。それで長門がカメラマン役してりゃあ、いい役割分担になるんじゃないか。ともかく、俺はパスだ。頼むから巻き込まんでくれ」
 ハルヒはリスのような頬とアヒルみたいな口でもって、無言でこちらを睨みつけ、十秒くらいそうしていたのち、いきなり踵を返すと、
「みくるちゃん、有希、プールに行くから急いでっ」
 と叫んで二人の手を引っ張りながら部室を後にした。
「ひえぇっ、この時期にプールは寒いと思いますぅー……涼宮さぁん……」
 ドップラー効果、か。俺はだんだんと遠ざかっていく朝比奈さんの叫び声の残響を聞きながら、心の中で合掌した。……ところで水着は持っているのだろうか。

 

 かしまし娘たちのいなくなった静寂の空間に、取り残された男が約二名。
「……なあ、あれ、どうしたらいい」
 駒を手で遊ばせていた古泉は、片方の眉を上げて、困ったようにこちらに目を向ける。
「さあ、僕にはなんとも。いつぞやのごとく、眠り姫の目を覚ます魔法でもかけてあげれば、素直なお姫様に変身するかもしれませんが」
 こいつはどうもさっきから、俺を怒らせようとしているとしか思えんのだが。穏やかな口調ながら、言葉の端々に刺を感じるのは気のせいか。しかし前からこんな物言いをするようなやつだっただろうか。やはり、なんだかんだとこの異常事態が堪えているのかもしれない。
「ふん、それで万一また閉鎖空間に引っ張り込まれでもしてみろ、苦労するのは俺とお前だ。もうちょっと穏便に事を運ぼうぜ。急がば回れ、果報は寝て待て、と昔の人も言っとるだろう」
「案ずるより生むが易し、とも言いますけどね」
「……次にふざけたことをぬかすと、ハルヒの不機嫌が俺に伝染ると思え」
 ハルヒの真似をして、眉間の皺を思い切り増やしながら口をアヒルの形にすると、古泉はまた新たなバリエーションでもって微笑みをリリースしてきた。こいつの微笑みは一体何種類存在しているのだろうか。卵形チョコレートにでも封入して売り出せばいい。きっとコレクターが喜んで買い漁るだろうに。
「あなたの忌々しげな表情コレクションのほうが、よほどコレクター魂をくすぐるかと思いますが」
 言った端からすぐこれだ。俺の認識が正しければ、今のはどう聞いても『ふざけたこと』だよな。
「よし、お前つい今しがたの俺の宣言を覚えているだろうな?」
 俺が怒りの台詞を吐くと、古泉は目を瞬いたのち、くすくすと笑い声を漏らした。馬鹿にするような様子ではなく、本当に可笑しそうに、だ。
「失礼しました、ご気分を害されたのなら謝ります」
 悪びれもせず、謝りながらまだ笑っていやがる。もしかして、こんなことでいちいちぴりぴりしている俺のほうがおかしいのか?
 古泉の飄々とした笑顔を見ている内に、何故だか急激に怒りとか苛立ちが退いてゆくのが分かった。
 多分、あれだ、怒るのも馬鹿らしくなったんだろう、きっと。
 ついでに昨日の自分の態度にも、むくむくと反省心が湧き上がってきたが、これは断じて古泉の笑顔のせいではない、と思いたい。
 そうさ、ただ、神に振り回されている哀れな人間を見て、ああ明日は我が身だな、と自分を戒めているに過ぎないと、そう思っておきたいのだ。
 そうでなければ、このちくちくと胸の奥がうずくような痛みの正体は、決して、目の前の男を思い憚ってのことではないと、言い切れないではないか。
 まったく同情など、お互いの飯の種にもならんものだ。

 

 反省というものは、実行を伴わないと意味がない。そんな格言を俺は持っていた。
「……昨日はきつく言い過ぎた。悪かったな」
 自分でも、柄にもないことをしているとは思ったが、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした古泉を見て、さすがに多少は後悔を抱いたね。しかしまた俺の中の役に立たない切り札、古泉の百面相コレクションが一枚増えてしまった。なんという無駄な記憶蓄積だろう。
 その後すぐさま気を取り直したように古泉は、変な笑みを浮かべた。
 泣き笑い、というのはこういう表情だったのか。俺は思わず膝をうちたくなった。それほどまでに奴の表情は、泣き笑い、としか表現できないものだった。
 そんな反応をされると、まるで場違いな対応をしてしまったようではないか。
「なんつう顔してやがる。俺が謝るのがそんなに変かよ。驚天動地とか言い出すんじゃないだろうな」
 俺はなんともいえず気恥ずかしい気分になり、頭をかきむしってごまかした。顔がものすごく熱いのだが、ハルヒに風邪でも伝染されたのだろうか。ひどい動悸も付属しているが、これはきっと気圧の変化のせいだ。そうに違いない。
 どうにも落ち着かず視線を泳がせると、古泉のそれとぶつかる。もしかして、自分の顔が赤くなっているのではないかと思うと、古泉の視界に入っていることすら恥ずかしい。俺の視線はそのまま、机の上にある自分の両手へと集中した。今ほど、髪が長かったならと思えたことはなかった。
 古泉の、大仰な吐息が聞こえる。そこにあるのは緊張か、戸惑いか、俯いている俺には見えそうにない。
「そんなことありません……あの、僕のほうこそ、おかしな真似をしてすみませんでした。ちょっと気が立っていたんです。反省しています」
 自信なさげな声が珍しい。俺はつい顔を上げる。
 ああ、もう何度目かも分からないが、飽きることなく言わせてもらいたい。
 なんて顔してやがる、と。
 雨の中捨てられた子猫に出会ったことがあるだろうか。か細い声で鳴きながら、頼りない目を向けてくる小動物、それを目にした瞬間の、母親の小言も、面倒な世話も、そして悲しい別れすら、頭の端に飛んでいってしまうほどの、どうしようも抗えないあの感覚──それに、襲われたのだ。今、俺が。古泉を見て。
 なんてことだろうか!
 剰え、俺はあろうことか、身を乗り出して、奴の頭に手を伸ばしていた。机二台分の距離がもどかしいとすら感じた。ほとんど無意識のなせる技だ。
 手に感じる柔らかな感触は、うちにいるシャミセンを思わせる。シャミを指の腹でブラッシングするみたいに、俺はその色素の薄い髪を、何度もゆっくりと梳いた。
 古泉はしばらく、困ったように視線をきょろきょろと動かしていたが、そのうち諦めたように、目を細めた。最初強ばらせていた体も、だんだんと脱力を伴ってきたようで、ゆっくりと肩が下がってゆく。
 何分間そうしていただろう。ふとそれに気づいた俺は、思わず手を止めた。
 古泉は泣いていた。
 号泣でもなくすすり泣くでもなく、ただ、目尻にうっすらと涙を溜めて。
 俺は伸ばした手を、ゆっくりと離した。心臓が、警告音みたいに鳴り響く。体中の力が抜けてゆく。
 何故だ。何故古泉は泣いている。
 いや、本当は分かっているんだろう? 頭の中で自分自身に問いかける。
 ──俺は知っているし、古泉は気づいていた。そこは踏み込んではいけないところだったと。
 気まずさで胸がいっぱいになり、俺は視線を逸らせた。
「……すまん、」
「どうして謝るんです」
 先ほどとはうってかわった、ドライアイスみたいに冷え冷えとした声が響く。
 言うや否や、古泉は椅子を鳴らして立ち上がった。長机を周回して、こちらへ向かってくる。そして目の前まで来たと思いきや、次の瞬間、俺の体は固い床に叩き付けられていた。
 尻と背中が痛みを訴えてくる。どうやら強く押されたのだと思い当たったのは、古泉が仰向けになった俺の腹に、馬乗りになってからのことだった。
「ってえ……てめえ、」
「あなたは非道いひとだ」
 ものすごい力で両腕が押さえられている。血が巡らない感覚、指先からすうと冷たくなって、痺れを覚えだした。それでも古泉の目は冷静だ。まるで解説役を仰せつかった時のように静かで、それが余計に恐怖を与えてくる。怖い。
 そうして気づかされた。古泉の目の奥にあるのは、純粋な悪意だ。
「人を一番傷つける行為が何だか、あなたはご存知ですか?」
 俺は何も言えずに固まったままだ。声が上手く出せるとは到底思えない。あごが震えて、歯の根が噛み合ないのだ。他人から、それも古泉から面と向かってぶつけられた悪意に、俺は全く免疫がなかった。
 嫌悪、という感情が、こんなにも恐ろしいものだなんて、知らなかった。
 力なく首を振る。
 そんなものは知らない。知っていたとして、言えるものか。
「いえ、あなたは知っているはずです、何故ならさっきあなたは気づいたはずだ。そうでなければ謝らないでしょう。さて、いつまで知らない振りを通せるとお思いです?」
 やっと腕に自由が戻ったかと思えば、今度は襟首を掴んで引っ張られる。至近距離にある古泉の目が見られず、俺は首をひねって視線を落とした。古泉の右肩が目に入る。こいつ、こんなにも力が強かったのか。逃避心からか、そんなことを考える。視界の隅に入った口元が、嫌な風に歪んでいた。
「ねえ、言ってくださいよ。僕はあなたの口から聞きたいんです」

 

「ちょっと! あんたたち何やってんの!?」
 怒号とともに、カチューシャの黄色いリボンが揺れるのが、古泉の肩越しに目に入る。途端、上半身を支えていた力が消え失せ、俺は勢い余って後ろに倒れ込む形になった。
 もう戻ってきちまったのか、意外と早かったな。
 怯えたような表情の朝比奈さんが、ハルヒの後ろから顔を覗かせている。この人を怖がらせるようなシーンなど、演じたくはなかったのだが。
「止めてよ、喧嘩なんて……マジなの? ねえ」
 ハルヒも珍しく、困惑の中に怖気を含んだような表情を見せながら、入り口に突っ立ったまま呟いた。この中でいつもと変わらぬ精神状態なのは、おそらく長門だけだろう。
 古泉は俺を一瞥したのち立ち上がると、ハルヒに向かって頭を下げる。腹に乗っていた重石がなくなったおかげで、俺もやっと体を起こすことができた。床に密着していたせいで、体が冷えて仕方がなかったのだ。
「すみません、彼との口論で、つい、かっとなってしまいました」
 平坦な、僕は嘘をついていますと言わんばかりの口調だが、それに突っ込めるものはこの場に誰一人としていない。俺も、ハルヒも、朝比奈さんも、あまりに普段と違いすぎる古泉に、戸惑いを隠せないでいた。長門はもとより、何も言うつもりはないだろうし。
「今日は、これで失礼します」
 ドア前に突っ立っていたハルヒは思わず、といった風情で飛び退き、その背中に朝比奈さんが首を引っ込める。古泉の去ってゆく背中を、二人はおっかなびっくり見送っていた。いつもは笑うにしても怒るにしても軽やかなハルヒの表情が重々しいことに、事態の深刻さを嫌でも実感させられる。
 沈黙が、しばしの間、部室内を支配した。
 最初に口を開いたのは、やはりハルヒだ。
「ちょっとキョン、何があったのか話しなさいよ……あんな古泉くん、初めて見たわ」
 そう不安げに呟く。しかし何があったのか、俺にも良く分からん。ただ一つ分かることといえば、古泉が、あり得ないほどの怒りを覚えていて、その原因が、俺だってことくらいだ。
 俺は無言で、机の上に途中で放り出されたままのオセロを片付け始める。ハルヒには悪いが、何も言えそうにない。朝比奈さんがおずおずと手を貸してくれたお陰で、ものの五分ほどでオセロは古泉のコレクション棚へと戻された。
 片付けの間中、心配そうにちらちらとこちらを伺ってくる朝比奈さんの視線が、ちょっと痛かった。
 さて怒っているだろうか、とハルヒのほうを見遣れば、予想は外れ、こっちは不安そうに眉をひそめている。
 そうか、そういえば初めてだったな。俺とハルヒ以外で、SOS団員同士が本気の喧嘩をしたことなど。ああ見えて、ハルヒには意外と繊細な部分があるのだ。雪山の事件の時も、俺と古泉の小競り合いをすごい剣幕で怒っていたっけ。
 実際のところはともかく、ハルヒの中では、信頼やら友情やらで繋がっていたであろう団員の結束。それが意外なところから解れを見せたことで、ハルヒは今まで抱いたことのない不安感に襲われているのかもしれない。
「大丈夫だよ。男同士、これくらいの喧嘩なんざ日常茶飯事だ」
「そりゃ、あんたや谷口ならそうだろうけど……相手は古泉くんよ? あんな、生まれてから一回も喧嘩どころか人の文句も言ったことなさそうな人が、体張った喧嘩なんて、信じらんない」
 探偵よろしく、口元に手を当てたポーズで、考え込むようにハルヒは言った。
 ハルヒの思うそれはまさしく、周りに対して古泉が演じている、『古泉一樹像』そのものだ。
 優しくて、穏やかで、いつもイエスマンな古泉一樹。それは一体誰だ? そして本当の古泉一樹は、一体どこにいる。さっきの一幕で見せた、あの涙と怒りは、あいつの本心を垣間見させるものだったのだろうか。
 俺は溜め息吐いて、ハルヒを見据えた。
「お前の抱いてる古泉像じゃそうだろうが、その印象が間違ってないなんて言えるか? 古泉だって喧嘩くらいするさ、不満だって溜まってるだろう。古泉だって普通の──人間なんだから」
 ハルヒは唇を噛み締めて視線を落としている。何を思っているのかは分からない。しかしハルヒまで不安になっちゃ、その他団員の不安まで煽ることになってしまう。と言っても、長門は相変わらず平然としているし、当事者である俺と古泉を除けば、残るは朝比奈さんだけなのだが。
 俺はハルヒの頭に手のひらを乗っけると、数回軽くたたいて、言った。
「心配するな。明日ちゃんと仲直りするから」
 はっとしたように、ハルヒが俺を見上げる。よく見ると、今にも泣きそうな顔だ。
 こいつにだけは、これ以上心配をかける訳にはいかない。古泉との約束もまだ果たせていないのだ。仲直りはもちろんだが、古泉の恋愛感情を、早くまともに戻さないといけないしな。
 俺はできる限り優しい笑みを意識する。古泉みたいに上手くはできないだろうが、要は心持ちだ、心を込めればきっと思いは伝わるはずだ。
「ほんとね? できなかったら死刑よ」
 やっと普段の強気の口調が現れだした。いつもは呆れを覚える文句で、これほどまで安堵できるとは。
「ああ、分かってるよ」
 朝比奈さんにももちろんのこと視線を向けると、一瞬の躊躇はあったものの、花のような微笑みでもって答えてくれた。ささくれ立っていた心も和らぐというものさ。
 さて、こっちは心配いらないだろうが、と思いながら長門を見遣ると、何かを言いたげな視線でこちらをじっと見つめているではないか。せっかく作った笑顔が、見る見るうちに訝しさを増してゆくのが自分でも分かったが、その疑惑は長門が視線を逸らしたことで、決定的なものとなった。
 背後ではハルヒと朝比奈さんが、なんとか元気を取り戻し、きゃっきゃ言いながらデジカメの簡易鑑賞会を開催している。
 俺はといえば、長門の観察をするのに全神経を集中していた。いつも通りパイプ椅子に腰を落ち着け、本の続きを読み進めている、ようにしか見えない。しかし、間違いなくこいつは、何かを隠している。
 多分、古泉関連の何かを。
 俺の中に新たな困惑が生まれ始めた。長門が隠しごとをするなんて、これは類無き事態ではなかろうか。古泉がハルヒのせいでおかしくなっていることは、長門も既知のはずだが、まだ何か、俺の知らない事実があるのだろうか。
 まあしかし長門のことだ。きっとその時が来れば、必ず真相を教えてくれるだろう。そういう信頼を抱くほどには、濃い付き合いをしているのだ。

 

 その夜、風呂の湯気にまみれて俺は、古泉のことを考えた。と言うか勝手に浮かんでくるのだ。まったく何が悲しゅうて、頭の中を男に浸食されねばならんのか。目を閉じても、思い出すのは、朝比奈さんの華麗な一人ファッションショーではなく、続々と集まる、俺の脳内古泉の表情コレクションだ。そろそろコンプリート間近なのではなかろうか。いや、まさかまだ隠しカードがあるとでも。などと不毛なことを考えている場合ではない。
 ハルヒにああ言った手前ではあるが、今回ばかりは、順当に事が進むとはどうしても思えなかった。
 そもそも、これって喧嘩なのか? 喧嘩っていうのは、もっと互いが気持ちをぶつけ合うもので、こんな一方的なものじゃないだろう。少なくとも俺は何一つ思いをぶつけていないし、まず古泉を怒らせた原因が分かっていない。
 ──いや、自分をごまかしても始まらないだろう。
 俺は古泉にずっと、ある種の同情を抱いていたのだと思う。
 SOS団員のなかで唯一、ハルヒのためだけに限定された能力を持つ超能力者。ただ席が前後だったというだけで、いつのまにか巻き込まれていた俺以上に、あいつはハルヒによって命運を弄くり回されている。古泉の人生は、件の三年前からハルヒの無意識の手中に収まっていて、あいつがどれだけもがいても、きっと身動き一つ取れないのだ。
 誰だってそんな人間の物語を聞けば、可哀想だという感想を持つだろう。何も分かっていない当事者であるハルヒに聞かせたって、「その人可哀想ね。その神様とかいうやつ、なんてひどいやつなのかしら」などと言って憤慨するはずだ。まあその場合、知らず自分に向かって怒っていることになるのだが。
 しかし、俺だけは、それを思ってはいけなかった。
 俺たちはその関係性において、極めて対等でいなくてはならない。涼宮ハルヒという特大の秘密を抱えた、運命共同体であるSOS団(団長除く)の中で俺たちは、ただのクラスメイトよりもある種濃厚で、特殊な友人関係を築いていたといっても過言ではない。古泉のほうはどう思っているか知らないが、少なくとも俺のほうは、あいつを友人以上の友人だと認めているのだ。
 しかし普通の友人と違うところは、俺たちは根本的に、涼宮ハルヒにおいてのみ繋がっている、という一点だ。だからこそ、不安定で、脆い関係だともいえる。どちらかが主導権を握ってしまえば、立ち所にバランスを失って壊れてしまう、湖に張った薄い氷の上を歩くような危うさを、一番奥深くのところで抱えている、そんな危機感が時折、自身を襲うのを、俺は自覚していた。
 俺たちの距離の取り方は、自分で言うのもなんだが、絶妙だった。俺も古泉も、互いに引いたラインの内には、一歩たりとも足を踏み入れようとしなかったのだから。勿論これは精神論であり、しかし精神の距離が同時に、物理的に最良の距離を生み出すこともまた然りだ。
 それに関しては、細心の注意をはらっているつもりだった。できる限り考えないようにしていたし、今回のふざけた人格改変の発生でも、それは変わらなかった、はずだった。
 あの日、夕暮れの坂道で、二度目の告白を受けたとき、俺は自分でも何故だか分からないほどの怒りを覚えた。古泉の、無理のある笑み、一体どんな気持ちであの告白をしたのか、想像もできない感情。それでいて、何かを諦めきった、達観したような表情に、俺は──ああ、こいつは、人生を操作されることに慣れてしまっているのだ、と感じたのだ。
 その時、俺の中で小さく疼いたのは、怒りだけでも、勿論「可哀想」という感情だけでもなかった。悔しかったし、悲しかったし、そして、こんなことを言ったら呆れられるかもしれないが、ほんの少しだけ、嬉しかったのも確かだ。
 それは決して同情などという、相手を狭みすんだものじゃない。では何かと問われれば、答えることなどできないのだが、俺はただ思い込んでいたかっただけなのかもしれない。あの感情を、ただの同情であると。
 だって、あの時──古泉に向かって無意識に手を伸ばした瞬間に、自分が何を考えていたのかを思い出しただけで、俺は自分の頭を疑いたくなるね。
 誰だっておかしいと思うだろう?
 今日、あの捨て猫みたいな顔をした古泉に抱いた衝動。
 俺はどうしようもなく、あいつに触れたいと、思ったのだ。
 ──どうも、認めたくはない、ないが。
 あれは、もしかして、いとおしむ、という感情なのではないか?
 憮然、である。俺は湯船に思わず顔を突っ込んで、気づいた。
 こんなに、ぐるぐるとおかしなことばかり考えてしまうのは、のぼせているせいだ、と。


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