いつものように谷口と国木田と三人机を並べてくだらない会話を交わしつつ弁当を食い、腹一杯になればもれなく睡魔がスキップしながらやって来るのも人間生来の習性であることは周知の事実たるゆえ、ご多分に漏れず俺も午後の微睡みに誘われるがごとく、重い頭を机に押し付け、自席でわずかながらの休息を味わっていた、その時だった。
思い切り首根っこを掴まれた上、後ろに引っ張られ、俺は背後にあった机の角で頭をぶつけた。何だこのデジャヴは。せっかく光臨なさった睡眠の女神様が羽衣の裾を翻し逃げていってしまわれたではないか。
「ってえなあ、おい!」
頭を押さえて後ろを振り向いた瞬間、まあ犯人は分かっちゃいたのだが、それでもそれなりに俺は驚きを覚えたのだった。何故なら犯人であるハルヒが、ついぞ深刻な表情を浮かべて、何か言いたげにこちらを見つめていたからだ。
「あんた何のんきに居眠りこいてるのよ。古泉くん、今日休んでるわよ」
そんな怒号も、いつもより覇気がない。随分と昨日のことを引き摺っているようだが、なるほど古泉が休んでいたとなると仕方がない──
「……ん? 何、あいつ来てないのか」
「そうなのよ、ほんと心配。絶対昨日のことが原因に決まってるわ。あんた昨日の約束覚えてるでしょうね? 今日は団活出なくていいから、学校終わったら古泉くんの家に行ってきなさいよ」
しかし昨日の喧嘩の身体的被害者はどう見てもこちらのほうなんだが、何故に悪いのは俺みたいな言い方になっているのだろうか。まだ昨日打ちつけた尾てい骨が痛みを訴えてるというのに、俺には労りの言葉もなしとは。こいつはどうも古泉を贔屓しすぎる気がある。
さりとて約束は約束だ、男に二言はない。それになんだかんだいって、俺自身、あいつのことをそれなりに心配しているのだ。だが待てよ。
「つうか俺、古泉の家なんざ知らねえぞ」
俺の言葉に、ハルヒは目ん玉ひんむいて、「はあ?」とまるで部屋の中にまぎれこんだショウジョウバエを見るような目つきで睨みつけてきた。俺の人間としての尊厳は一体いずこへと行ったんであろうか。
「なんで知らないのよ? 古泉くんからの年賀状に住所書いてあったじゃない。あ、そういえば、あんたからのは来なかったけど、まさか送った年賀状、見てもいないなんて言わないでしょうね」
いや見たさ。見たどころか、朝比奈さんからの年賀状など、額に入れて和室の欄間に飾るつもりであった。長門からの年賀状にしても、まさか来るとは思ってもみなかったから、珍しさのあまり折り畳んでお守りに入れておこうとしたほどだ。古泉の年賀状は、まあ、いつもの通り差し障りのない挨拶と内容で、これじゃ誰から来ても一緒じゃないかと言いたくなるような、コンビニの見本年賀状を思わせる出来だったから、その他クラスメイトのものと紛れて仕舞われているはずだ。帰ってから探し出すとなると一苦労だな。
「ふうん……で、あたしの年賀状はどういう扱いなわけ?」
ハルヒの年賀状は、そうさな、魔除け代わりに机の奥に仕舞っているよ。お陰さまで今年はまだ、フロイト先生のお世話になりそうな悪夢は見ていない。
「何それ。なんか腹立つわ。まあいいけど……ちょっと待ってなさい」
そう言ってハルヒは生徒手帳を取り出すと、ぱらぱらとページをめくり、連絡網一覧のあたりに指を挟み込んで広げた。そこにはSOS団各団員の氏名と、その横に住所、携帯番号、自宅電話番号まで詳細に書き込まれているではないか。
意外だ、意外すぎる。こいつが生徒手帳を活用していて、剰えきちんと団員の住所電話番号を記録しているなど。
「こんなの団長なら当たり前の労務よ。さってと、古泉くんの住所ね、ほらさっさとメモりなさい」
ハルヒがいきなり古泉宅の所在地を読み上げたため、俺は焦って手元にあったノートの切れ端に、ミミズがのたくったような字でそれをメモする羽目になった。これ、後々解読は可能だろうか。
「そんじゃあ放課後よろしくね。あ、あと来年はちゃんと年賀状出しなさいよ」
今年も出そうとは思っていたんだがなあ。ほら、やろうやろうと思えば思うほど、面倒臭くなって後回しになることって多いじゃないか。それに正月というのは、日本人を最も堕落させる習慣だと俺は思っているのであるが、いかがなものか。さて俺は誰に言い訳しているんだろうね。
自分でもようやく読めるくらいの乱筆を眺めながら、俺はまた吐きたくもない溜め息を吐く。
やれやれだ。
さて放課後。俺は足取り重く、長ったらしい坂道をゆっくり下っていた。冬の太陽がまだそれなりに高い位置にある時間帯にこの道を通るなど、最近では珍しいことだ。思わず家に直帰してそのまま遊びに出かけたくなる。お察しの通り、これは現実逃避というやつである。
ようやく最寄り駅に着いた頃には、冷気にすっかりと手がかじかんでいた。いい加減手袋が必要かと費用の算出を行うも、常より絶対的な財政難に陥っている我が財布からは、無論「ノー」という答えしかはじき出されない。
空しく自らの息で暖を取りつつ、自転車を取りに駐輪場へと向かったところで、なんと長門が現れた。鞄もなく、手持ち無沙汰で突っ立っているところを見ると、どうやら常人には想像もできない何らかの方法で、俺よりも早くこの場に到着した上で、待ち伏せていたようだ。
「あなたに伝えておきたいことがある」
俺が「どうしてここに?」と尋ねるよりも早く、長門が口を挟む。いつにない早口だ。急いで戻らないと、ハルヒが誰もいない部室に現れちまうだろうからな。
俺の返事を待たず、長門は再び口を開いた。
「古泉一樹は、もう限界。これ以上事態が長引くと、なにもかも、壊れてしまう。だからあなたは──彼が望むことを早く、実行しなければならない」
長門の、宇宙よりも漆黒の目が、しっかりと俺を見据えている。この目の奥には、アカシックレコードが存在しているのかもしれない、とかぼんやり考えていると、長門は不意に背を向け、元来たと思われる道を戻り始めた。気づいた時にはもう姿が見えなくなっていたが、一体どんな魔法を使ったのやら。
自転車にまたがりながら、思考を巡らせる。
もう限界、か。そんなこと、とっくに分かっていたさ。
しかしどうして長門がそれを言うのだ。おかしいだろう? 長門はいつだって傍観者ではなかったのか。命に関わることでもなければ、ハルヒの起こす改変行為に手出しはしないはずだ。だってハルヒの能力を観察し、その影響を見極めるのがお前の仕事なんだろう、なあ長門。
それとも古泉の状態は、それほどまでに酷いのか。壊れるというのは──精神に異常をきたすという意味か? しかしそれならば、なにもかもとは、何を指している?
長門は何を知っているのだ。昨日わざとらしいほどに、意味ありげな視線を投げてよこした長門。言いたかったのは、さっきのことだけか。
ハンドルを握る手が向かい風を受け、ぴりぴりと痛みだす。ああ冷てえ。
──さて、お前は一体、何を隠している。
考えても答えが出るはずもなく、気づけば俺は、ハルヒに聞いた住所のすぐ近くにまで自転車を走らせていた。ひとまずサドルを降りそれを押しながら、電柱に書かれた番地を一つ一つ確認してゆく。一つ角を曲がったところで、それらしき建物は、すぐに見つかった。マンション名の書かれた表札にある住所も、ハルヒに聞き及んだ通りだ。何の変哲もない、良くある単身者向けワンルームマンションの外観。灰色がかったハサードを見て、あんな灰色の空間に出入りしながら、よくこんな薄暗いところに住んでいられるなあ、などと感想を抱く。
部屋番号を確認するが、名前は書かれていない。不意に小さな逡巡に襲われる。ここまで来ておいて、なんつう度胸なしだ俺は。頭を思いっきり振って不安を追い出し、心配するハルヒ、そしてさっきの長門を思い浮かべる。うむ、勇気というか、受動的覚悟が湧いてきたぞ。腹を括り、俺はチャイムを押した。
「はい」
扉が開くのとともに、覚えのない声が聞こえてきて、俺は反射的に、まずい、と肩を竦めた。やっぱり間違っていたか。幾ら乱筆とはいえ、自分で書いた字を見誤るとは。
「あ、すみません間違えました」と言おうとして、俺は固まった。扉の開かれた前に立っていたのは、どうも、もしかしたら古泉なのではないか、と思ったからだ。どうしてはっきりしないかというと、その古泉モドキは、頭はぼさぼさ、目の下にはひどいクマがかたどられていて、うつろな視線は焦点が定まっていないかのように宙をさまよい、おまけに喉から絞り出されたその声が、明らかに普段の古泉の爽やかなそれとは違っていた。
「……何しに来たんですか」
やっぱり、違う。低くてがらがらで、まるで中年男性のダミ声だ。結構なショックに、いまいち古泉の話す内容にまで頭が回らない。
「帰ってください」
突き刺すようなその一言に、俺はやっと我に返った。その言い草のあまりの冷たさに怯んだのも束の間、必死に威勢を張って反抗を試みる。
「嫌だね」
閉められそうになった扉に肘鉄を食らわせ、隙間に体を挟み込んだ。今度は古泉のほうが、怯んだような表情を見せる。
「ハルヒと約束しちまったんだ。お前と仲直りするってな。それが叶うまでは俺はここを動かんぞ」
それを聞いた瞬間の古泉の顔は生涯忘れられそうにない。人間って、ここまで冷淡な目つきができるのか、と俺は思った。その時に感じたのは決して恐怖なんかではなく──ただ少し、悲しくはあった。
「へえ、涼宮さんに言われたから来たんですか。それはそれは。まったくあなたらしいことで。どうぞ、何もおかまいはしませんし、お茶のひとつも出しませんが、それでもよろしければ上がっていったらどうです」
お前はハリセンボンか。そこまで刺々しい言葉のオンパレードで身を守ろうとせんでもいいじゃないか。敬語で嫌味を言われると、無性に腹立たしい。しかしここでの俺の立場が弱いのは自明の理である。仕方なしに、スニーカーをきっちりと揃えて上がり込んだ。行儀の悪さまで突っ込まれたら堪らない。
だがその心配も、部屋に入った途端、杞憂に終わった。
俺は思わず呆然と、部屋の中を見回した。間取り自体はキッチンスペースに六畳一間の、至って普通のワンルームなのだが。脱ぎ散らかされた服がベッドの上に山をなし、コーヒーテーブルには、コレクションのように大量のグラスとペットボトルが並んでいる。ベッドサイドに積まれた文庫本は雪崩を起こして床まで飛び散り、おまけにその雪崩のせいで、床に積まれた雑誌類が二次災害を引き起こしていた。その他、カップ麺の空容器、コンビニ弁当の残骸、スナック菓子の空袋等々が床を埋め尽くし、底が見えないほどの層を形成している。
「……泥棒でも入ったか」
俺の言葉に、バカにしたような笑みでもって古泉は答える。
「涼宮さんならまだしも、あなたまで、一体僕にどんなイメージを持たれているんですか? 僕はこの通り、だらしのない無精者です。そして残念ながら、心の面積もバチカン市国並みなんですよ」
聖職者が聞いたら怒り出しそうな例えで自身の心の狭さを説くな。俺はとりあえず座れそうな隙間を探し出し、ベッドに腰を下ろした。茶を出さないと宣言した通り、古泉は自分の分だけペットボトルを取り出してから、俺の向かい側に器用に空きを作って座り込む。
「ところで喧嘩もしていないのに、どうやって仲直りするつもりなんです?」
古泉が肩を竦めて嫌らしい笑みを浮かべる。どこまでも俺をバカにしたいらしい。これまたむかつくことに、こいつは分かってて言ってやがる。俺が少々の悪口でキレるはずがないと。そうだな、ここでキレたら負けだ。こいつはわざと俺を怒らせて、さっさと帰らせようとしているに違いないのだ。
「お互いに腹立ってることを言い合って、それで謝りゃ仲直りだろう。こっちは昨日お前に押されたせいで、まだ尾てい骨が痛いんだ。俺が腹立ってるのは、強いて言えば、これくらいだな。で、お前は何をそんなに怒ってる」
古泉がぴくりと眉を動かした。まただ。嫌な笑い方をしやがる。いつもスマイル正義の味方みたいなやつだったのに、ここ数日ですっかり悪役っぽさが板についてきているな。
「また昨日の議論の蒸し返しをなさるつもりですか。あなたは分かっているんでしょう。だからといって謝られても困るんですが」
「分かってないから聞いてんだよ」
古泉の口から漏れたのは、あからさまに呆れを含んだ溜め息。一つ忠告しておくが、ドラマやまんがでそういう嫌味ったらしい仕草をするやつは、大概終盤で痛い目を見ると相場が決まってるんだ。悪いことは言わんから、止めておいたほうがいい。
「では、質問を変えましょう。昨日のあなたの僕に対しての行為、あれはどういうつもりだったんですか?」
昨日の行為、とは、俺が古泉の頭を撫でたことを指しているのであろう。それについては俺も昨夜風呂の中、のぼせた頭で必死こいて考えた。しかし考えた結果出た答えは、どう言い訳しても恥ずかしすぎて、素直に口に出したいものではない。と言うか、本当にその答えが正解かどうかも分からない。言い淀む俺を見て、古泉は勝ち誇ったような表情を浮かべる。
「言えないなら僕が代わりに言いましょうか? どうせ、あなたは思っていたんでしょう、僕のことを可哀想なやつだと、涼宮さんに振り回されている、哀れな人間だと」
そうすらすらと明言する古泉の口調は、どうにも自虐めいていた。その苦しさを堪えるような顔を見て、俺は気づいたのだ。
こんな言い方まるで、自分を貶めることで、自らの身を守っているみたいじゃないか。これ以上傷つきたくないから、古泉、お前は自分で自分を傷つけているんじゃないか?
さっきの長門の言葉を思い出す。古泉一樹はもう限界。それは俺のせいなのか。俺は一度言葉でもって、ひどく古泉を傷つけた。屋上での出来事。あの時の茫然自失とした古泉の顔がフラッシュバックのようによみがえる。翌日なんでもない風を装って俺に接していながら、本当は腹の中でどんな思いが渦巻いていたのだろう?
古泉の望むこと。それを早く見つけなければ。
「それは違う。断じて違う」
「違わないでしょう。あなたが自分の口から言わないのが何よりの証拠では?」
俺の否定にも古泉は耳を貸さない。俺自身、違うと気づいたからそう言っているというのに、どうしてそれを認めてくれないのだ。この野郎、意固地になっているとしか思えない。思わず頭に血が昇るのが分かった。腹立たしさをぐっと堪えるため、俺は指のしわを数えてやりすごそうとする。
このままじゃ埒があかない。ここは腹を括るべきか。なんで古泉相手に、こんなにこっ恥ずかしい目をみなければいかんのだ。せめて、元に戻るとともに忘れてくれることを祈ろう。
「だから違うって言ってんだろうが。俺はただ、あん時……お前に触れたくなっただけだ」
古泉が目玉をひんむいてこちらを凝視している。そんな反応されたら、余計恥ずかしくなるだろうが。ハルヒと閉鎖空間から戻るために取った行動と、どちらがより思い出したくない過去ランキング上位に入るであろう。
「……それは、どういう意味です?」
掘り返すな蒸し返すな深く突っ込むな。正直自分でも、どういう意味であるかなど考えたくもないのだ。
「そのまんまの意味だ、深く考えないでくれ」
「そのまま……? 僕だって、あなたに触れたいといつも思っていた。それと同じだと言えるんですか? あなたがちゃんと言ってくださらないと僕は……」
この時俺は、古泉がどさくさに紛れて、とんでもない発言をしているとは露ほども思わず、ただ、こいつが納得してくれるならなんでもいいと、それを肯定することだけしか考えていなかった。
「だったら悪いかよ。『触れたい』に触れたい以外の意味があるか」
言ってすぐ、俺は明後日の方向に視線を逸らした。これでもう羞恥の限りを味わい尽くしたぞ。金輪際こんな発言するものか。やっぱり茶くらい頼み込んで出してもらえばよかったか。眺めたくもないコンビニおにぎりのパックを眺めながら、所在のなさにそわそわしていた俺は、古泉がいい加減ずっと黙りっぱなしなのを訝しく思い、やっとそちらに目を向けた。
古泉の表情が、ゆっくりと複雑な変化を遂げてゆく。
──絵を、描きたいと思ったことは、これまでの人生に一度だってなかった。でも、今ならば分かる。こんな、すぐに消えてしまう一瞬の表情を残したくて、人は絵を描くのだと。
泣きたいのか? 笑いたいのか? それとも怒っているのだろうか。その表情から読み取れるものは、何もないように思えたし、また、全てを込めた表情にも思えた。
それはあの日、古泉の口から想像を絶する告白を聞いた日に、最初に見せた表情に、とてもよく似ていた。
「あなたは、残酷なひとだ」
古泉は笑っていた。まるで神様のような笑みだと、俺は思った。全てを知っているからこそ、全ての悲しみを内包した笑みで、きっと神様は、こんな風に笑うんだろうと。
しかし、その儚い表情は一瞬にして消え去り、後に残ったのは、何もかも諦めきったような目をした、ただただ悲しい、人間の姿だった。
「きっと違う。僕の『触れたい』と、あなたの『触れたい』は、同じではありません」
言いながら古泉は、こちらに体を移動させる。長い腕を振り上げ、俺の肩を掴むと、そのままドミノのスタートを切るように、軽く力を込めた。柔らかなベッドに飲み込まれるように、俺の体は倒れ、上手く力を入れることができない。
古泉の体重がのしかかる。その手が愛おしげに、俺の髪を、頬を、撫でる。抵抗するなんてことは思いつかなかった。俺自身、一体何が起こっているのか、全く頭が追いついていなかったのだ。
「これが僕の『触れたい』です。僕はあなたの全部に」
触れたい、そう消え入りそうな声で呟きながら、古泉は俺の体をまさぐる。シャツの裾から冷やりとした手が侵入してきて、俺は身を震わせた。体は凍りついたように指一本動かせない。古泉の唇がまぶたに触れる。目尻をなめ、耳たぶを甘噛みし、それから唇におりた。屋上で交わしたそれよりも、ずっと濃厚で深く、頭の芯まで痺れそうなほどの感覚に襲われる。舌がからめとられるのを、俺はどこか他人事のように、しかし感触だけは生々しいほどのリアリティで味わいながら、受け入れた。
繰り返されるキスの息苦しさに気が遠くなる。その夢を見ているみたいな半覚醒状態から、一気に現実に引き戻されたのは、自分のかすれた声によってだった。
「こい、ずみ」
俺はやっと、これはまずい、止めなくては、という辺りまで頭が回転し始めた。しかし体がまだ言うことを聞かない。力が入らないのは、押し倒されているベッドのスプリングが柔らかいせいだけではなかった。それより何より、断続的に襲ってくる快感に抗えない。まずい。古泉の手はすでに一カ所を集中的に攻め立てていた。当たり前だがそれは、今まで味わったことのない感覚だ。頭では、逃げなくてはと分かっているのに、体がそれに追いすがろうとする。
「こいずみ、やめろ、」
喉から漏れる変な声に辟易しながらも、息も絶え絶え否定の意思を伝えるが、取り憑かれたように俺の首筋に顔を埋める古泉の耳には、きっと届いていないだろう。
それでも、とうとう古泉が俺のベルトに手を伸ばした瞬間、背筋がぞっとするほどの恐怖と嫌悪感が、全てを勝って訪れた。それを機に、金縛りが解けたように、体が抵抗を示した。
「やめろ……っ!」
力一杯、肩を押し戻すと、古泉は意外と簡単に身を離した。
泣いているはずなどなかった。古泉の顔のどこにだって、涙は見当たらなかったのだから。なのにどうしてこんなにも、胸が痛むのだろう。助けを求める小さな手を、突き放してしまったみたいな罪悪感が、俺を襲った。
「結局、あなたはそうだ」
肩で息をしつつ体を起こして、シャツを整えながら古泉を見遣ると、そこにあったのはまるで仮面のように張りついた笑顔だった。古泉は無感情に、口を開く。
「あなたは上辺だけの意味で、僕に触れたいと言ったのでしょう。僕を一番傷つけるものの正体は、あなたの持つその博愛的な優しさですよ。あなたは誰にでも優しい。平等な優しさは、あなたに好意を寄せる全ての人間を、一番残酷な方法でもって傷つけるということを、あなたは気づいていなかったのですね。何も知らずに優しさだけを振りまいて、深く触れようとすれば逃げてしまう。そんなあなたが僕は、とても腹立たしい」
古泉の言葉が耳をすり抜ける。俺が、優しいだって?
「俺は……そんなつもりはない」
「その無自覚さに、苛々するんです」
「……お前は俺に、何を望んでいる」
「僕の望むことはいつだって一つですよ。あの灰色の空間が発生しないようにしていただければ、僕は安心して生活ができるのです。真っ当な願いだとは思いませんか?」
──それは本当にお前の願いなのか、とは問えなかった。そう問うて、イエスと答えられるのが、怖かった。
それに、俺は気づいてしまったのだ。長門の言いたかったことに。
この茶番を早く終わらせなければ、嘘を重ね続けた古泉自身も、一年かけて築き上げた関係性も、ほんとうにぜんぶ、壊れてしまう。それはまさに、壊れるとしか表現できない事態だ。
俺は無言で立ち上がった。ベッドに放り投げっぱなしだった鞄を拾い上げ、そのまま玄関に向かう。古泉は追いかけてもこない。こちらを見向きもしなかった。
「それがお前の望みだっていうなら、叶えてやるさ」
丸まった背中は何も語らない。塵の中たたずむ古泉は、まるで情けなくて、普段の王子様然とした姿からは到底想像できない。それを見て、俺は何故だか泣きたくなった。
最後まで言葉を交わすことなく、扉は閉ざされた。結局あいつは現実世界にいても、灰色の空間から抜け出すことなんてできないのかもしれない。この扉を開けて、何かを追いかけようとしない限りは。
携帯を取り出し、メール作成画面を立ち上げる。
電話帳の『さ行』を開きながら、俺は自転車にまたがった。