恐ろしくピーカン晴れな朝だった。この世には自在に天候を操る者が存在しているとしか思えないほど、人間にとって最高に気持ちのよい空気が、今日という日に満ちている。そういえば、こうやって何も考えず空を見上げるなど何日ぶりであろうか。なんて発想自体が、ここ数日の俺の余裕のなさっぷりを物語っている。
毎度おなじみ、SOS団の集合場所となっている小さな駅前広場の時計を見上げると、時刻は九時二十分、まだ約束の時間までは余裕がある。段差を椅子代わりに腰を下ろして、俺は待ち合わせ相手をのんびり待つことにした。幸い今日は、風が冷たい割に気温はそれほど低くない。
俺のほうが先に待ち合わせ場所に来たのは、今回で二度目だ。一度目は確か、自分の人生をマグニチュード8.0並みの衝撃で襲った例の事件のすぐ後の、町内探索の時だったな。連中が示し合わせたようにサボりやがったあの時は結局、何故か遅刻したあいつに奢らされるという理不尽な仕打ちを受けたのだが、その恨みを俺は未だに忘れちゃいないのである。
そんなことを想起しながら不意に改札に目を向けると、一年前を彷彿とさせる、がに股歩きのむっつり顔がこちらに近づいてくるのが見えた。俺の前で立ち止まると、見下ろすように仁王立ちで胸を反らせたハルヒが、不機嫌そうな声を絞り出す。
「なんでもう来てるのよ」
「お前は結局、俺が早く来ても遅く来ても怒るのか。頼むからどっちかにしてくれ」
俺はにやけを抑えられないまま、意識的にゆっくりと立ち上がって言った。
「で、もちろん今度こそ、遅刻は罰金で奢りなんだよなあ?」
おお、いつもより余計にとんがっているぞ、アヒル口。大きな瞳が上目遣いでこちらを睨みつけながら、
「……分かったわよ、奢ればいいんでしょ、奢れば」
頬をめいっぱい膨らませてそう言ったかと思いきや、次の瞬間には、きらきらと音のしそうな笑顔が俺を見据えていた。相変わらず、恐ろしく切り替えの早いスイッチを持ったやつだ。
「さあ、時間がもったいないわ。さっさと行きましょ!」
さて、この傍目から見ればまごうことなきデート中の二人が実は何をやっているかといえば、昨日の報告会兼、ついでの不思議探しツアーと言うより他ない。
ハルヒはどうやら俺と古泉がちゃんと仲直りできたのか、大層気になっていたようだ。昨日俺がメールを入れようとした瞬間、狙っていたかのようなタイミングで着信が入ったのには驚愕する外なかった。さすがにこの時ばかりは、俺もとうとう謎の予知能力に目覚めてしまったのかと、自身のバックグラウンドに不安を抱きかけたね。そんな俺の心中察する訳もないハルヒは通話ボタンを押した瞬間から、挨拶もなしに矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。しかし答える隙すら与えられない一方的な会話では、まともに報告が伝えられるはずもなく、俺は這々の体でなんとか今日の約束を取り付けて、放っておけば壊れたラジカセよろしく、延々と喋り続けそうな勢いのハルヒとの通話を終了させたのだった。
ところでどうして不思議探しまで予定に入っているかといえば、自分で言うのもなんだが実は意外なことに、こちらは俺の提案である。元々昨日入れる予定だったメールも、心配かけたお詫びに一日どこでも付き合ってやるつもりで、その誘いをかけるためだったのだ。だから逆に報告会のほうが余計にくっついただけと言える。
だから、だからだ。ハルヒを誘ったこと自体は、決して古泉への当てつけなんかではない。これだけは言っておきたい。
しかし昨日「デート」という言い方で古泉に送った報告メール、こちらはただの当てつけに他ならない。今回の件の諸々に対する、俺の密やかなる仕返しだ。
朝っぱらから張り切るハルヒに引っぱられるようにして、俺たちはひとまずと、いつもの喫茶店に向かった。
指定席についた途端、どこかの兼任監督のごとく腕組みをしながら、ハルヒはこちらに身を乗り出してくる。こいつといい古泉といい、いちいち距離を詰めんと会話もできないのか。他人との距離間が重要な現代社会においてこのパーソナル・スペースの測れなさ加減、他人事ながら将来が心配である。
「で、どうだったのよ。古泉くんとちゃんと仲直りできたの?」
何をそんなに慎重になることがあるのか、ハルヒは僅かに眉根を寄せ、ためらいがちに囁いた。果たしてこの場で声をひそめる必要性など微塵も感じられないのだが、あまり細かいことを突っ込むと、すぐに機嫌を損ねるようなやつだ。それであの『神人』とやらを暴れさせられでもしたら、俺はますます古泉の恨みを買うことになりかねん。
「……まあ、問題ないさ。大体男同士の喧嘩なんざ、一日も経てばお互い忘れちまうもんだ」
嘘八百並べながら俺は、昨日の古泉の姿を思い出していた。あの様子じゃ一日どころか、一年経ってもしつこく覚えていそうだなと、ひどい顔をした古泉が、まぶたの裏側にありありと映る。あいつの見せた百面相とともに、思い出したくもない一連の出来事まで芋づる式に記憶が蘇ってきたのには焦ったが、なんとかポーカーフェイスを保てていたと信じたい。そうでなけりゃ、俺はハルヒにとんでもない間抜け面を晒したことになるだろうからな。
「ふうん……それならいいんだけど」
俺の心配を余所に、もとより俺の顔など目にも入っていなかった様子のハルヒは、思案の表情でもってそう呟いたかと思えば、目の前のコーヒーカップに視線を落としたまま黙り込んだ。しょっぱなのハイテンションからは考えられないくらいのダウナーぶりに、俺はいささか驚きを隠せなかった。
まったくこいつもここ数日、よくよく様子がおかしい。思えば風邪をひいて休んだ日からこっち、一層情緒不安定だった。そう、まるで入学当初、いつも苛立ちを抑えず焦燥感を燻らせていた、あの頃のハルヒに戻ったみたいに。
古泉はともかく、長門といい、今年の冬は人の調子を狂わせるウイルスでも蔓延しているのだろうか。冬休み熱病とか、そういうやつがさ。だとしたら、俺ももれなく感染中だ。朝比奈さんにまで伝染さないよう注意しておかなければ。
ハルヒは変わらず黙ったままだ。沈黙の支配する妙な空気に、さてどうしたものかと、俺はひとまずとコーヒーカップをつまみ上げた。その動作を目で追うようにハルヒは、顔を上げるときゅっと唇を噛みしめ、視線をさまよわせたのち、とうとう口を開いた。
「……ねえ、あんた言ったわよね。あたしの抱いてる古泉くんの印象が、間違ってるんじゃないかって」
「別に間違ってるとは言ってないぞ。間違ってないとは言えないんじゃないか、って言っただけだ」
揚げ足をとるつもりもなければ、ふざけているつもりもないのだが、俺の言葉にハルヒは思い切り口をとがらせた。
「ああもう、いちいち遠回しなのよ、キョンの表現は。ていうか、違うの、聞きたいのはそんなことじゃなくって……」
そこでいったん言葉を区切り、ハルヒはまたも言い淀む体を見せた。唇に手を当て、眉間のしわを増やす。そこにあるのは憮然とした表情。これだけ言葉を濁すハルヒなど初めて見るな。珍しいこともあったもんだ。
「……もういい、なんでもないわ」
ずるりと、大きな音をたててコーヒーをすするハルヒは、やはり冬休み熱病にやられているに違いない。
で、すっかり冷めきったコーヒーが白い脂を浮かべる頃になってやっとこさ、俺たちは重い腰を上げることとなった。なんにも喋らないハルヒと顔を突き合わせるのがこんなにも居心地悪く、また精神を摩耗するってことを、俺は知りたくもなかったね。一体どうしてこんな拷問に甘んぜねばならんのか、納得できないこと然りだ。
さて、ここで察しのよい者ならば当然予想がつくだろう。ああ払ったともさ。俺のなけなしの小遣いはたいて、ハルヒのコーヒー代まで。俺の早起きの成果はまたもや実らず、これぞ骨折り損のくたびれ儲けというやつだ。
しかしハルヒよ、たまには礼の一つくらい言いやがれ。
「ふん、別に頼んでないもの。さっきだってあたしが出そうと思ってたのにさ」
これ以上殺意を覚えさせるような真似は止めていただきたい。どうにか怒りを抑え込んでやり過ごし、やっとハルヒを誘い出すまでに自身と折り合いをつけられたというのに、その苦労が全て水の泡になってしまうじゃないか。さてはこいつ、わざと俺を怒らせようとしているのではないか? 実は何もかもを分かっていて、俺を弄んでいるわけではないよな?
なあんてな。くだらないことを考えるのは止めにしよう。
「それじゃあせめて昼飯は奢れよ。今度こそだ」
俺は無理に表情を作ってハルヒに笑いかけた。多少引きつっていても許してくれ。古泉みたいに器用に笑う術など持たないのだ。
こちらをちらりと見遣ったハルヒは不貞腐れたような顔を見せ、思わずつまみたくなるくらいに口を尖らせながら、分かってるわよ、と呟いた。
そのまま目的地も告げず、無言で足を進めるハルヒの後ろを、俺は黙ってついて歩く。いたたまれない空気が俺たちの周りに充満していた。なんつう息苦しさだ。ここは海底二万マイルか。せめて息苦しいのは潜水艦の中だけにしてもらいたい。きっと一生乗ることはないだろうからな。
歩いているうちに、見覚えのある川の沿道に差し掛かる。いつもおかしなことばかり聞かされる羽目になる、呪われた公園だ。
冬の公園はなんとも侘しく感じる。木々が緑を失い、色あせて見えるからだろうか。川のせせらぎが、土を踏みしめる音にかぶさる。耳がぴりぴりと痛みだしたのは、寒さのせいか静寂のせいか。
さすがにこれ以上は我慢できない、窒息死手前だってところでようやく、俺はハルヒに事を問いただす気を起こした。歩みを止めると、こちらを振り向かずとも雰囲気で察したのか、ハルヒは続けて立ち止まる。
「なあハルヒ、一体どうしたっていうんだ」
俺はできる限り安穏な雰囲気を口調に込め、迷子の子猫に話しかける警察犬のように尋ねた。しかしハルヒは答えようともせず、無言のまま手近なベンチに歩み寄り、そのまま腰を下ろす。強い視線に促され、俺も仕方なしに、隣に腰掛けた。
「……ねえ、キョン。いつも古泉くんと、どんな話をしてるの」
たった数十分間耳にしていなかっただけだというのに、変に落ち着いたハルヒの声が、やけに新鮮に聞こえた。しかしやっと発言したかと思えば、なんだってそんなに答え辛い質問が出てくるのだ。悪いが、とてもハルヒに教えられるような普通の会話は交わしていないぞ。何せ常日頃から、宇宙だの未来だの超能力だの、電波満載の言葉が飛び交っているのである。その上最近の話題はもっぱら、古泉の惚れた腫れた一点張りだったという非常識さ。そしてもちろん、当事者であるハルヒの名前も、そのおかしなパワーについてもだ。ほらな、少なくとも俺の権限で明言してやれることなど何一つない。
そんな訳で俺はまた一つ、こいつに嘘を吐くことになる。
「別に、普通の話だよ。テストの結果とかクラスメイトの話とか、SOS団のこととか。だいたい、元々たいした共通点ないしな、会話自体そんなに交わしてもない」
「その割には仲良さそうよね、あんたたち」
「そうでもねえよ」
あれが仲良さそうに見えたってのか。どれだけ節穴な目をしてるんだよ。そういえばこいつは長門に対しても、見当違いの印象を持っていたんだったな。どうもあまり他人の人となりを読むのは得意じゃないようだ。その割に俺の思考傾向はよく理解していらっしゃるみたいだが。そんなに単純かね、俺という人間は。
「あんたほど単純な人間も、そういないわよ」
ああそりゃあ悪うござんした。どうせ俺はミドリムシ並みの単細胞生物である。
「どうでもいいわ、そんなこと」
溜め息とともにそんな台詞を吐き出したハルヒはどうも、不機嫌というよりはアンニュイな雰囲気を帯びているように見えた。ここまでくれば、さすがに単細胞な俺にだって気づくことができる。こいつの様子をおかしくしている原因に。
「で、お前は古泉の何をそんなに気にしている。仲直りしたって報告だけじゃ不満なのか」
図星をつかれたらしきハルヒはしかし、怒り出すわけでも、拗ねるわけでもなく、むしろ俺のほうから尋ねてきたことに、安堵の表情を浮かべているようですらあった。どういった理由でこいつがこうまで、二の足を踏んでいるのかは到底分からない。が、俺にだって多少なりとも物事を考える中枢神経は備わっているんだ。そして、話を聞く二つの耳もな。だから言ってみろ。
俺の催促に、ハルヒは意を決したように頷き、ゆっくりと口を開いた。
「古泉くん、急にどっかに行っちゃったりしないわよね?」
「はあ?」
これまた予想外の問いかけに、俺は思わず珍妙な声を喉から滑り出させてしまった。ハルヒが心外だとでも言いたげな顔でこちらを睨んでくる。
「何言ってんだよハルヒ。どこからその発想が湧いて出た?」
なんともいえない脱力感に襲われ、呆れにも似た笑いが湧き起こると、それを見てまたハルヒは眉間にしわを刻んだ。
「だって……有希の時と同じなんだもの」
「長門の時?」
「あんた、最近妙に古泉くんのこと気にしっぱなしだったでしょ。それに古泉くん本人も情緒不安定だし。ほら、それで、あんた有希が転校するかもしれないって言ってた時も、ずっと有希のこと見たりしてたから……古泉くんにも、何かそういう相談されたんじゃないかって思って」
なるほどな。俺はやっと腑に落ちた安心感とともに、いささかの驚きを抱いた。よもやハルヒが、調子を狂わせるほど古泉のことを考えていたとは。言っちゃ悪いが、こいつは古泉のことなんざ、大して重要視していると思えなかったのだ。体のよいパトロンかイエスマンか、少なくとも長門や朝比奈さんに対してみたく、自分のモノ扱いはしていなかったしな。
だから意外だった。あんまり意外すぎて、しばらく反応ができずにいた。馬鹿みたいに動けずにいた俺に、ハルヒは、どうなのよ、ってな視線を寄越してくる。それを見て俺はやっと我に返り、ゆるく首を振ってみせた。
「それはねえよ、全くの事実無根、お前の妄想だ。安心しろ」
それを聞いた途端、ハルヒはほっとしたように口元を緩め、ようやく強気な目を見せはじめた。いつもなら勘弁してくれ、と思うこの目に、よもや安心感を与えられるとは。まあ次の瞬間には、すぐに後悔することとなるのだが。
安堵したのも束の間、いきなりハルヒは俺の襟元を掴みかからん勢いで、上半身を前のめりに近づけてきた。なんだろうか、この言葉にならない威圧感は。
「じゃあ、古泉くん一体どうしちゃったのよ。あんた何か知ってるんじゃないの?」
「……俺が知るかよ。おおかた実力テストの点数でも悪かったんじゃないのか」
「それはあんたの希望か知らないけど、残念ね、貼り出された結果じゃ古泉くん、私のすぐ下にいたわよ」
言うまでもなく、成績順位においてハルヒの上に着けるような強者は、北高一年内では皆無である。
「嘘ね。キョンあんた、嘘吐いてるでしょう。ほんとは古泉くんに何があったか知ってるんでしょ? 隠し事してもすぐに分かるんだから、あたしを騙そうなんて思わないことね」
だから何故に俺が古泉のおかしくなった原因を知っている前提で話が進んでいるのか。俺はそんなにも分かりやすい人間だったか? いや本当のところ、知りすぎているほど知ってはいるが、だからといってそれをバカ正直に話せるほど、俺は耄碌しちゃいない。さて、ハルヒに嘘を吐くのは、今日だけで何度目だろうね。嘘のために嘘を吐く、これこそまさに負のスパイラルというやつか。いつか、こいつが真実を知る日は来るのだろうか?
「お前が何を勘違いしてるのか知らんが、俺はほんとに何も知らんぞ。言っておくが、古泉は俺なんかに悩み相談持ちかけたことなど一回もない。だいたいあいつは俺をそこまで頼っちゃいないよ。俺が幾ら訊いても、いっつもはぐらかすだけだ」
自分で言いながら、だんだんと落ち込んできた。嘘を吐くつもりが、口にしたのは全部本当のことではないか。分かりきったことだし、気にしてもいないつもりだったが、じゃあどうしてこんなに、胸がきりきりと痛むのか。ああまったく、自分で言って自分で傷ついてりゃ世話ないな。
そうなのだ、と改めて俺は考えた。古泉が心の内を俺に伝えたことなど、今までに一度だってなかった。あいつの相談はいつでもハルヒの起こした困りごとについてのみで、古泉自身の悩みだとか、本当に思うことを、俺に対して、いやおそらく誰に対してもだろうが、絶対に口にしないのだ。なおかつ俺の方こそ、進んで知ろうともしなかった。そりゃあ、ちょっと突っつくくらいはしたことがあるが、笑って躱す古泉に、深く追求などできなかった。それがお互いの距離の測り方だと、俺は甘んじていた訳だが、果たしてそれで本当に良かったのだろうか? 見て見ぬ振りをしていたズボンのポケットの小さな解れが、いつの間にか大きくなって、何か大切なものを落としてしまったような──今起こっているのは、そういうことなのか。
距離を測り間違えていたのは俺のほうか? ハルヒみたいに、無理にでも首根っこ引っぱり上げて、息がかかるほどにまで、近づかなくてはいけなかったのだろうか。
俺の真に迫る口調に気圧されたのか、ハルヒはもう突っかかってこようとはしなかった。どうやら俺は想像以上に、ひどい顔をしているようで、こちらを見上げるハルヒの心配そうな顔が、それを如実に物語っていた。
「あんたも、よっぽど情緒不安定ね。男子部員が二人してそんなことじゃ困るわよ。もっとしっかりしなさい!」
ハルヒはそう言って、渾身の力で俺の背中をぶっ叩く。背中に電撃が走り、もしかしたら肋骨が二、三本いったのではと錯覚するほどであった。なんつう馬鹿力だ。お陰ですっかり目が覚めたぞ。
「分かってるよ。大丈夫だ」
精一杯の虚勢を張る。きっと今一番効果的なのは、無理にでも元気を見せることなのだ。俺にとってもハルヒにとっても、それから古泉にとっても。前向きに考えでもしないと、やっていられない。
しかしこれだけは訊いておきたいと、俺は思った。
「なあハルヒ、もしもだ、もし古泉がまたいきなり転校するなんてことになったらどうする? あいつが黙って、俺たちの前から姿を消したとしたら」
ハルヒは虚をつかれたように目をぱちくりとさせ、それから最高に不敵な顔をしてみせた。
「そんなの連れ戻すに決まってるじゃない。そうよ、絶対に許さないんだから。SOS団は、五人じゃないと意味ないの! 古泉くんと有希とみくるちゃんと、それからキョン、あんたと、もちろんあたしも。全員揃ってこそのSOS団なんだからね!」
ああ、それを聞いて安心したぜ。これで心置きなく俺は、古泉を今の場所につなぎ止めておくことができる。あいつが望もうと望まないと、俺たちに心を開くつもりがなくてもだ。何せ他でもない、団長様の意思だからな。
なあ古泉、聞いたか。お前はハルヒにとって、絶対に必要なんだとよ。
俺たちの座ったベンチは、ちょうど木々の間から木漏れ日が燦々と降り注ぐせいか、やけに温かかった。冷たい風はすっかりと止んで、ここだけ春先の様相を呈している。時折聞こえる鳥のさえずりがまた、子守唄みたいに耳心地よく眠気を誘うものだから、俺は瞬間、彼方へと飛んでゆきそうになった。
俺の意識を呼び戻したのは、特大に鳴り響いた俺と、それから肩を並べていたお隣さんの発した、空腹音のユニゾンであった。見事なハーモニーに、思わず顔を見合わせる。
「……腹減ったな。そろそろ昼飯にしないか? もちろん、お前の奢りでな」
俺がにやりと口元をゆがめると、ハルヒもそれに答えるように、怒ったような笑みを浮かべた。
「仕方ないわねぇ。あたしの奢りなんてそうそうないんだから、心して味わいなさいよ!」
後はほんとうに、穏やかとしか言いようのない、つつがなきデート(と称していいのだろうか)であった。昼はハルヒが前々から気になっていたらしいカレー屋で激辛カレーをかっ込み──これがこの世のものとは思えないほど辛くて、ハルヒはなんであんなものを平気で、つうか美味そうに完食できるのか不思議でならない──、それからデパートでハルヒのショッピングに付き合い、ハルヒは怪しげな店だの裏路地だのを見つけるたびに足を止め、俺はその不審な行動を止めるという、まあどこにでもある一風景を演じていた。俺とハルヒがだ。驚きのあまり、うっかりプリクラでも撮ろうとか言い出しそうになったね。もしや、ハルヒのせいだとばかり思っていた事件の数々、実はあの三人が持ち込んだものだったんじゃないだろうな。
最後の最後まで、普通に一日が終わった。日が下る頃、俺は普通に手を振り、ハルヒは普通に手を振り返した。最後にぽつりとこぼした、「やっぱりさっき本屋にいた店員、宇宙人だったんじゃないかしら」というハルヒの一言以外は、至って普通だった。
俺は最高に気分が良かった。気を抜くと口笛の一つも吹いてしまいそうなくらいだ。駅から自転車をかっ飛ばしていると、頬にあたる冷たい風に冬の厳しさを感じる。真っ赤な光を背中に受けながら、俺は家までの帰り道を辿った。
自宅の前に立つ人影に気づいたのは、自転車を降りてすぐのことだった。
腕組みをしながら、古泉が家の壁にもたれかかっている。俺は気づいたと同時に手を挙げ、とりあえず存在を示してみた。古泉のほうもすぐに俺に気づき、小さく会釈を返される。そこにあるのは、随分と穏やかな笑みだった。こいつのこんな表情、久々に見るな。しかしすぐに違和感を覚える。なんだろう、この感じ。そうだ、昔見た、独裁政権下にあったとある国のドキュメンタリー。そこに映った国民は、今のこいつと同じような表情でカメラを見ながら、独裁者を讃えていたのだ。
夕日のオレンジ色に染まった、仮面のように貼り付いた笑み。感情の全く見えない表情を、古泉は浮かべている。
気づいた瞬間、ぞっとした。最高の気分はこの瞬間、一気に地球の内核にまで落ち込んだ。
「どうも、少しだけお時間よろしいですか」
昨日の荒れ具合が嘘のように、声も服装もすっかりと元通りに戻っている。上辺だけは、いつも通りの古泉だった。
「手短に頼む。もうすぐ夕飯の時間だからな」
俺は肩を竦め、わざとおちゃらけて言った。そうでもしないと、緊張感に呑まれて、おかしなことを口走ってしまいそうだった。なにせ古泉は、俺が気づいたってことに、まだ気づいていない。それを悟られる訳にはいかなかった。
俺が気づいたこと。思えば、その結論に至るまでの道のりは至極簡単で、当然のことだった。
古泉の心は、最初から、改変されてなどいなかったのだ。
「今日はありがとうございました。おかげさまで、涼宮さんの心象風景はすっかりと穏やかさを獲得し、僕は晴れて、ここ数日悩まされていた苦しみから解放されそうです。ほんとうに、あなたのおかげです。僕の行った数々の失礼に対しては、なんとお詫びしてよいか分かりませんが、ひとまずお礼だけでもさせていただきたいと」
いけしゃあしゃあと、古泉は言う。ここで俺が、「全部嘘だったんだろう」と言ったら、こいつはどんな顔をするだろう。泣きわめいたり、激怒したりするだろうか。それとも、俺が気づいていようがいまいが、どうでもいいのか。
古泉が欲しかったのは、俺がハルヒを誘い出したという事実、ただそれだけなのかもしれない。その上どういう了見でこんな大掛かりな嘘を吐いてまで、俺を嗾けたのかは分からない。が、それでも俺には、ここ数日の間に古泉が見せた数々の表情──それは嬉しそうだったり悲しそうだったり、怒りに染まっていたこともあったし、はかなく今にも消えそうな笑みのこともあった──がすべて嘘だったとは、どうしても信じられないのだ。
もしもあれが全て古泉の演技だったのなら、俺はきっと、人間を本質的に信用できなくなるだろう。一年近く付き合ってきたのだ、俺だってあのポーカーフェイスの中に隠された真意を見抜けるまでには成長している、と思いたい。
だから俺は何も言わない。俺が気づいたことを知らないまま、こいつが次に見せる手は一体なんだ。俺はお前の希望を叶えた。そこから先はどうする、さあ見せてみろよ古泉一樹。
爽やかな笑みを携えたまま、古泉は口を開く。
「これであなたも僕から解放されます。もう、あなたにご迷惑は掛けませんよ。明日になればきっと、僕はこの恋心を忘れてしまうでしょう。あなたとの関係も元通り。もういきなりキスしたり、触ったりなんてすることはありません。だからご安心ください」
古泉の言葉は確信に満ちていた。そこには、明日からどう接していいのかという不安だの、嘘がばれるかもしれないという危機感だの、その他諸々のマイナス感情を一切感じさせない。いっそすがすがしいほど、解放されたという喜びだけが、その笑顔の内に存在しているようだった。まるで真実、明日になれば全て忘れてしまうのだと、分かっているみたいではないか。
嘘だろう? まさかほんとうのほんとうに、この事態が一切合切ハルヒの仕業だっていうのか?
だって古泉は言ったじゃないか。俺に触れたいと、いつも思っていたって。こんな言い方、ここ数日で芽生えた感情で吐き出すには大仰すぎる表現ではないのか。それに俺にはあの時の古泉の切羽詰まった物言いが、本心から来るもののように聞こえたのだ。
正直に言おう。古泉の告白は、まごうことなき本物であると、俺は確信を持っていた。
しかし今の古泉の態度と口調で、その確信は揺らいでいる。幾らなんでも人間ここまで、何食わぬ顔で嘘を吐き通せるものなのか? 何かおかしい。やけに自信に満ちた無表情な笑顔は、まるで催眠術か洗脳にでもかかっているみたいではないか。
「今日までの数日間の僕は幻です。神である涼宮さんのためだけに存在した、もう一人の古泉一樹とでも考えてくださって結構です。そして明日からはまた、ほんとうの古泉一樹として、僕は生まれ変わるんですよ」
以前俺は訊いた。『機関』は宗教か何かか。古泉は似たようなものだと言った。信仰神は涼宮ハルヒだ。こいつはまじで信者なのか。そんなにも、神様ってやつは偉大かよ。神様のためだけに、自分の意思何もかもを曲げて、言うこと聞いて、損得勘定なしに尽くして、その上あんな訳の分からない空間で、危険と隣り合わせの奉仕活動してるっていうのか。ほんとうにハルヒが世界の命運を握っているという確証もないのに、自分たちだけで世界を守っているつもりなのか。
分からん。『機関』やら古泉が何を考えてんだか、ほんとうは何を守ってんだか、俺にはまったく分からんよ。
「なあ古泉、まじで全部消えてしまうのか。俺にした告白も嘘だったのかよ。作られた気持ちでも、確かにここにあるって、お前言ってただろう」
俺は古泉の左胸を指差し訴えた。古泉の眉がぴくりと動く。瞳の奥が揺らいだように見えた。頑固なポーカーフェイスが、ほんの一瞬だけ崩れたのは気のせいか。
しかし再び現れた笑顔は、もう感情を映し出すことはなかった。
「嘘ではありません。全部幻だった、それだけです」
そう言ってにっこりと笑う古泉に、もう何を言っても無駄なのだと俺は悟った。古泉の言い分が嘘であっても本当であっても、同じことだ。
次に会う時、きっと古泉は全部忘れてしまっているのだろう。俺に告白したことも、一緒に弁当食ったことも、手を繋いだことも、俺を突き倒して馬乗りになったことも、キスをしたことも。それがハルヒの力によってなのか、はたまた別の手段によってなのかは分からないが。
「それでは、また明日」
長く長く影が伸びる。右手できざったらしく挨拶をして背を向ける古泉を見ながら、一言も発することはできなかった。代わりにカラスが耳障りな声を立て、夕暮れ時を演出している。
幻だって? ふざけるな。
幾らお前が忘れようが、俺の頭の中には全部残っているんだ。