くらす 1


うまれる

 わたしはその時までひとりだった。
 その世界は何もかもが新しく、わたしの記憶の中に存在していなかった。それもそのはずで、わたしには何の記憶もなかった。
 蓄積された言語を辿りながら風景を追う。触覚で感じる。
 頬を撫でるのは風。少し冷たい。季節は知っている。春夏秋冬。しかし今がどの季節に該当するのかは分からない。
 頭上でざわめくのは広葉樹。おそらくケヤキと呼称される種。
 わたしは座っている。座っているということは、このやけに幅のある木製の物体は椅子にカテゴライズされるのだろう。ベンチという言葉が引き出された。これはベンチ。
 わたしは腕を持ち上げる。鼻頭にのるのはglasses──ああ、これはここの言語ではない。
 眼鏡属性、という言葉が頭に浮かんだ。属性──個体の属する要素。意味が理解できない。造語だろうか?
「──か……?」
 突然、初めて聞く言葉が耳に入ってくる。わたしの頭の中にはない言葉。
 鼓動が速度を上げた。判別できない感覚に襲われる。
 知りたいと思った。今、初めて聞いたその言葉の意味を。
 声の在処に視線を移すと、驚愕の表情を浮かべた人間がこちらを凝視しながら立っていた。
 推定年齢十八〜二十三歳程度の男性、赤い自転車を押している。
 わたしは彼の顔を見つめた。記憶は空っぽなので、照合はできない。
 彼はわたしを知っているのだろうか。
 ──わたしは彼を知っている?
「わからない」
 わたしはそう口に出した。
「あなたはわたしを知っている? わたしにはわからない。──わたしは誰?」
 彼の目は、ますます大きく見開かれた。
 わたしは理解する。
 ああ、彼はきっと、わたしを知っている。

>>はじまる












はじまる

 俺はまた知らん内に、時間移動でもしてしまったのか。
 そいつの姿を見つけた時、俺は目を疑った。
 五年前から、まったくと言っていいほど、変わったところは見当たらなかった。同じ髪型、同じ服に身を包み、同じ目をした、無表情な姿。あの日と同じようにそいつは、暗がりの中、駅前公園のベンチにちょこんと腰掛けていたのだった。
 まるであの日の再現VTRでも見ているかのような気分だ。
「長門か……?」
 その微動だにしない制服姿の女に、恐る恐る俺は呼びかけた。十中八九、人違いではあり得ないとはいえ、ここまで変化が生じていないとなると、逆に他人の空似かと疑いたくもなる。
 長門らしき女子高生は俺の声に気づくと、空気中に漂うホコリの数でも数えてんのかと思うくらい真ん前に固定されていた視線をこちらに移し、たっぷり三十秒は考え込む仕草を見せてから、ゆっくりと首を傾げた。
 どういう反応だそれは。というかこの反応、あまりの懐かしさに涙が出そうだ。こいつは長門に違いない。それだけは間違いない。しかし、だ。そうなると、俺の認識は根底からひっくり返されることになる訳だが、一体何が起こっているというのだろうか?
 お前の説明では状況が把握できない、なんていう苦情はなしだ。何せ俺自身もこの状況、まったく訳が分からないのだから。
「わからない」
 そうだよ、そう。よくぞ俺の気持ちを代弁してくれた、長門。って、
「何だって?」
 もしかして今、結構な問題発言をしなかったか。俺は思わず、その感情を映さない顔を真正面から見据え直した。耳馴染みのよい、ちょっと低めの小さな囁き声が繰り返される。
「あなたはわたしを知っている? わたしにはわからない。──わたしは誰?」
 時が止まった。

>>くる












くる

 こちらを向いた目が、まぶしげに細められた。体に合わないパジャマを着たそいつは、鼻をすんと鳴らして一歩中に歩みよる。足取りがおぼつかないのは、まだ半覚醒状態だからだろうか。
「いい匂い」
 そう言うと、食卓に並べられた色とりどりとは言いがたい、日本の伝統色を地でいくカラーリングの朝食に視線を落とし、そのまま自分の指定席へと腰を下ろす。おもむろに箸を手に持つと、無言のままきんぴらごぼうをひとつまみ。
 炊きたての白米をこれでもかというくらい盛りつけた茶碗を手にした俺は、それを受け取ろうとするこじんまりとした手のひらを制止させ、一言言い放った。
「こら、挨拶は」
 最初の一言以来黙ったままのそいつは無表情に目を見開き、あたかも今気づいたと言わんばかりに箸を置くと、ぼそりと呟く。
「いただきます」
「いやそれもだけど、その前に」
 思わず呆れ口調にもなろうというものだ。彼女は不思議そうに首を傾げて、それから小さく口を開いた。無音の「あ」が聞こえた気がした。
「……おはよう」
「ああ、おはよう、長門」
 そうそう、朝起きて一番最初に言う言葉は、「おはよう」なのだ。

 一足遅れて、もう一つの陰が窓からの光を遮った。大きなダイニングの窓に背を向けた場所が、そいつのいつも座る席だ。
「よう、古泉」
「おはようございます。長門さんも。今日も朝から豪勢で……あなたの食事当番の日がいつも待ち遠しいったらありませんよ。ああ、このきんぴらはお隣の山田さんのくださったものですね。彼女のきんぴらはいつも照りが絶妙でついつい食べ過ぎてしまう。今日のみそ汁はワカメと豆腐ですか、うん、出汁のいい香りがたまりませんね。お先にいただきます」
 朝から良く回る舌は絶好調のようだ。この家での一日の内の発言量の割合は、長門を1としたらこいつは9だな。俺は真ん中取って5程度か。
「へーへーどうぞ。飯つぐからちょっと待ってな」
 皆が揃えば食卓もにわかに忙しくなる。人数分の飯をついで配れば、グリルにかけていた紅鮭は香ばしい匂いをたたえ、絶妙な加減で焼き上がっていた。さっさと皿に移して自分含め全員分を行き渡らせる。と言っても、たった三人だけだが。テーブルの上に並んだ山田さん特製きんぴらをつまみ食いしていた二人は、焼きたての鮭を目にした途端爛々と瞳を輝かせ、早速腹際に箸を入れて小気味いい音を立てている。ちなみにお隣の山田さんというのは悠々自適なご隠居の身であるおばあさんであり、もてない男が抱くような淡い幻想にしばし見られる「美人OL」もしくは「女子大生」などというフィクション上の登場人物ではないことを先にお伝えしておこう。
「そんじゃ、いただきまーす」
 もういただいている奴もいるが、人間最低限の作法は守らないといかん。日々、血となり肉となってくれる動植物に感謝の気持ちを込めての「いただきます」は、大切な礼節なんである。
 大きなテーブルを囲って皆で揃ってかっこむ朝ご飯。どこにでもありそうな家族の団らん風景に見えるかもしれない。
 しかし俺たちは、まったくもって家族などではなかった。

>>たべる











たべる

 彼女がここにいることに、未だに慣れない。
 僕は対面に座る彼女のよく動く手をじっと見ていた。食事作法も、僕の知る五年前の彼女から全くと言っていいほど変わっていない。それはもう、驚くほどに。
「長門、おかわりは」
 空になった彼女の茶碗を見て、彼はすぐさま声を掛ける。言われた彼女は無言でこくりと首を前に倒した。肯定の合図。しかしほんとうによく見ているものだ。まるで、ドラマの中の母親のようだな、そんな風に思った。
 それはある種の現実味のなさ。実際の母親はそれほどまでに子どものことを考え、三歩先を行くような行動を必ずしも取れるはずがないのだ。少なくとも自分の記憶の中に、そのような母の姿はなかった。とは言っても、母親と一緒に暮らしていたのは随分と昔のことだが。
 まずもって、この空間そのものが現実味をまったく帯びていない。目の前には長門さん、左手側には彼。絵に描いたような朝食が目の前に並んでいる。それも毎朝。僕の起床時間は一人で暮らしていた頃よりも一時間早くなった。卵を焼く方法、みそ汁を作る方法を覚えた。
 この奇妙な同居生活が始まってから一週間。僕は未だ、覚めない夢の中を漂っているような妙な感覚にとり憑かれたままだった。
 そんなことを言えば、きっと彼は呆れた口調で僕を諌めて、それから眉尻を下げて笑うのだろう。その表情ならば、リアルに想像できる。今目の前の光景よりもずっとリアルに。
「古泉、お前は。おかわり」
 僕は知らぬうちに茶碗を空にしていたようだった。ご飯をつげば見えなくなる僕専用の茶碗の底には、真っ赤な丸が描かれている。一週間前、彼が近所のスーパーの食器売り場で買って来たものだ。帰った途端、にやにやしながらその買ったばかりの茶碗を僕に差し出し、「ほらここにお前がいるんだ」と彼は言った。やけに嬉しそうに。あの頃彼がしばしば、あの異世界での僕の姿を揶揄するようなことを言っていたのを思い出し、ああ、まだ忘れていなかったのかと僕は嘆息を漏らしたのだった。
「もう結構です」と断ると、彼はすっかり綺麗にした自分の皿を重ねて立ち上がった。「じゃ、お先にごちそーさん」とシンクにそれを置いて、そのままダイニングを後にする。長門さんもそれに続くように食べ終わった食器を片付け、無言でこちらを十秒ほど凝視した後、結局一言も喋らないまま、まっすぐ隣接のリビングへと向かった。リビングには書棚が取り付けてあり、僕のあまり多くもない蔵書が雑多に並べられている。彼女はここ一週間、日がな一日それらの本を読みあさっているのだ。
 一人取り残された僕は、急いで残っていたおかずを腹に収めて、シンクに向かう。食事当番が彼の日は、僕が洗い物当番である。ちなみに長門さんは掃除と洗濯当番。この三つの家事当番を、三人で持ち回っている。
 洗い物を済ませた頃には、既に時刻は八時を回っていた。家を出る時間だ。僕はリビングに顔を出し、長門さんに行ってきますと伝え──もちろん返事はない──、それから彼の部屋に顔を出して、同じ言葉を繰り返した。机上のノートパソコンに向かった彼はこちらを見ずに片手を上げ、「おう」と短く返事をするのみだが、これもいつものことだ。あまり余裕がないらしい。思わず小さく笑みをこぼすと、何故だか気配で分かったようで、こちらを振り向きじっとりとした目で睨んでくる。その顔がかなり面白く、ますます笑いたくなるのを堪えて、僕は名残惜しさを感じつつ自分の家を後にした。
 そう、ここは、まぎれもなく僕の家なのである。

>>おもいだす













おもいだす

 古泉が大学に行くと、途端に家の中が静まり返る。元々三人揃って、大声で喚き散らすタイプではないとはいえ、やはり人一人分の分量が減るというのはなかなか寂しいものだ。嫌でも集中力が高まる。俺はしばらくの間、一心不乱にキーボードを叩きまくった。
 さて、平日の昼間から家でパソコンをいじっているからといって、俺は決して働いていないわけではない。むしろこれが本職である。
 何の因果か、俺の現在の職業は、一般的には「小説家」と呼ばれている、まあ、いわゆる「小説家」だ。……他に言い様がない。ことの発端は半年前、皆が皆就職活動真っ盛りの時分に、俺は内定がいっこも決まらずいよいよ焦りだしていたのだが、そんな折に古泉が言ったのだ。
「あの頃のことをおもしろおかしく小説にでもして新人賞に応募してみてはどうですか。何せエピソードだけなら一級品なのですから、文章は人並みでも、それなりに受けるのではないでしょうか。特に子ども向けの小説──いわゆるジュブナイルですね、その辺りでしたら、あなたの軽快な語り口は寧ろプラスになるのではないかと。いいじゃないですか、小説家。僕は子どもの頃、小説家になりたかったのですよ」
「じゃあお前が自分で書けよ」と突っ込めば、「僕の文章は面白みがまったくありませんからね、論文向きなのです」と笑って躱された。その頃古泉は既に院に進むことが決定しており、余裕綽々な態度がやけに腹立たしかった。しかし確かに、もし万が一上手いことデビューができたら、なかなかどうして、よいのではないか? などとだんだんその気になってきた俺は、勢いのまま小説を書き上げると、その勢いを減速させることなく新人賞に突撃、そのままトントン拍子でデビューが決まった時には、言い出しっぺ本人である古泉が一番驚いていた。
「まさかほんとうに小説家になってしまうとは」
 なんじゃそりゃ。
 そんな訳で、俺は高校の時よりももっと珍奇な肩書きを、自ら手にすることとなったのである。ちなみにハルヒにはきちんと許可をいただき済みだ。何せ俺の書き上げた小説の読者第二号なんだからな。言うまでもなく、第一号は古泉である。その最高にとんちんかんな設定(しかし全て実話)をハルヒはいたく気に入ったようで、読了後すぐに電話を寄越して、一時間に渡る賞賛と、それと同じくらいの量の批判も混ざった演説をぶってくれやがった。ちなみに開口一番言った言葉は、「なかなか面白いじゃない! でもこれあたしの映画の設定まんまパクってるわよね? 著作権料を請求するわ」であった。冗談かと思えば、後日本当に設定使用料という名目の請求書が送られてきた。──それ以前に、お前の映画の元ネタこそが、俺の語った真実だろうが。著作権というのなら、あの三人に帰依すべきだ。
 ちなみにハルヒは現在遠く海を渡り、アメリカの大学で一人意気揚々と研究に身をやつしているらしい。いわゆる海外留学というやつか。二回生の時すでに院生に混じって学部の研究室に入り浸っていたハルヒは、その頃発表した論文がとある大学の教授の目に止まり、そのままそこの研究室に招致されたのだそうだ。ちなみにそのニュースを告げるハルヒからの電話は、ちょうど古泉と一緒に飲みに出ていた時にかかってきたのだった。二人して目を白黒させつつ、しかし、ああ、やっぱりなあ、などと言い合ったのを良く覚えている。
 しかし幾らこの辺りの思い出に浸っていても、小説のネタには使えない。もうその頃には全員が全員、非日常とは無縁の生活を送っていたのだから。
 俺はかぶりを振ると、無理矢理に記憶を高校の頃までタイムスリップさせた。

>>しる











しる

 この家は静かだ。時折彼の部屋から聞こえてくる小さな騒音も、耳心地がよかった。ここはとてもよい場所だ。静かで、心地よくて、優しい。
 優しいという感情の概念が、わたしにはまだ理解できない。しかし、彼が言ったのだ。この家は、優しいと。だからわたしは「優しい」を、この家自体と定義づけた。
「心地よい」は分かる。感じることができる。今、わたしは心地よい。
 ここにある本はどれも非常に興味深かった。開いた途端、様々な知識が流れるように頭に入ってきた。この地球が成り立っている法則、一見不思議な現象にもすべて原因と本質が存在するということ。わたしという物質を構成する分子のこと。本には何もかも載っている。
 しかしどれだけ本を読んでも、未だに知ることのできない知識は数多くある。「優しい」の正解もその一つだ。単純に概念を言葉で説明することは容易い。しかしそれは理解とはほど遠い。
 生きている、生活している、その中でわたしはすぐに分からないことに出会う。その度に立ち止まらなくてはならない。もっと知りたいことはたくさんあるのに、どうして一つ一つ、自分自身で答えを出さなくてはいけないのか? 科学も物理も数学もほとんどすべての学問は、先人達の知識を間接的に得ることができるというのに、感情というものだけは──直接、体感するしかない。
 この感情を「もどかしい」というのだ、と彼は教えてくれた。
 わたしはとても、もどかしい。
 本は最後の一ページを終えた。フランスの古城で連続殺人事件が発生するという、フィクション小説だった。一般的にミステリと呼ばれるそのストーリーは、限りなく理論が破綻しており、トリックは稚拙で無意味、どう考えてもこの家の書棚には似つかわしくない本であった。きっと間違えて買ってしまったか、そうでなければ人から押し付けられたなどの理由で、本来ここにあるべきものではなかったのだろう。
 わたしはそれを閉じてから、洗面所に備え付けられた洗濯機の前へと向かった。
 今日は、わたしが洗濯と掃除の当番だから。


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