であう
時は一週間前に遡る。まだ僕が一人で生活していた頃、この家のリビングに研究課題の資料を広げて、片っ端から目を通していた最中のことだ。
静寂を破った突然の彼からの連絡は、想像を絶するものだった。
「緊急事態だ。今目の前に長門がいる」
通話ボタンを押した途端、挨拶も呼びかけもなく聞こえてきた彼の第一声の、その意味を噛み砕くまでに数秒のタイムラグが生じた。ながと、という響きの言葉を久しく耳にしていなかったせいだろう。
僕が何も言わずにいると、彼はそんなこと最初から承知していたみたいに、よどみなく言葉を続けた。
「どうも記憶喪失らしくて、俺のことも認識していない。もちろんSOS団のことは何一つ覚えてなくて、その上自分が宇宙人てことも分かってない」
何故、だとか、どうして、だとか考えることは無意味だと一瞬にして悟る。
非常に簡潔で分かりやすい状況説明に、僕はやっとこさ言葉を発することができた。たった数秒の間に随分と緊張したもので、喉は乾ききって声が掠れてしまっていた。
「まさか……」
「嘘ついてどうする。今日は四月一日じゃないぜ。とにかく、どうなってんだかさっぱりだ。『機関』は何か知らないのか」
彼の口調も珍しく焦りを含んで苛立っているようだった。しかし今の『機関』に何らかの期待を抱いているならばそれは間違いというものだ。彼女を失って以来、ただの無意味な非営利団体と成り果てた我々には、既にそういった異質な情報を得る力など残っていない。つまりどうなってんだかさっぱりなのはこちらも同じである。おそらく『機関』に問い合わせたところで、事実が判明するとも思えない。しかし連絡しない訳にもいかない。一応僕は「万一何かあった時」を想定して、未だ彼の側を離れるなと『機関』からお達しを受けている身なのだから。なんにせよ今の僕には、ひとまず落ち着いて現状を把握する時間が必要だった。
「ともかく、『機関』に確認を取ってからまたご連絡します。ひとまず切りますね」
「いや待ってくれ、コトのついでに頼みたいんだが、……お前の家に今から行かせてもらえないか? もし大丈夫だったらでいいんだが……なんせ長門は家なき子だし、俺の実家に連れ込むわけにもいかん。外で連絡を待つには正直……見目的になんというか、よろしくないしな」
これまた彼にしては珍しく、迂遠な表現と持って回ったような言い方での頼み事だった。見目的によろしくないとは、一体どういうことか。
「はあ、言っている意味がよく分かりませんが、家に来るのはまったく構いませんよ」
「そうか、助かる」
僕の承諾に、その口調は心なしか普段通りの軽快さを取り戻していた。
そうして数十分後、目の前に現れた彼ら──片や二十歳もとうに過ぎた男、片やセーラー服に身を包んだどう見ても女子高生の二人連れ──を見て、僕はようやく、先ほど彼が言った言葉の意味を理解したのだった。
同時に、僕たちはどうやら自分で思っているよりも若くはないらしいということを、ようやく身を以て受け止めた。
>>かりる
本日の仕事が一段落した後、俺は古泉に電話で報告だけいれて、そのまま実家に向かった。長門は相変わらずリビングの書棚の前にへばりついていたので、一声掛けてはきたが、俺が出ていったことすら気づいていないのではないだろうか。
情けないことに俺は古泉のマンションに住まわせてもらうまで、ずっと実家暮らしをしていた。俺だって大学卒業後すぐに家を出たかったのは山々なのであるが、こちとらついこの間デビューしたばかりの小説書きである。まだ本だって刊行されたばっかりだし、その印税が入るのだってもう少し先で、早い話、俺には引っ越しできるほどのまとまった金がなかった。
まあ現在も住まわせてもらっている身であるから、情けないことには変わりないのだが。
夕飯の準備をしながら、母親が言う。
「いきなり出てったと思ったら、また連絡もなしに帰ってきて。もう……あんた、古泉君にご迷惑かけてないでしょうね」
お小言も一週間ぶりとなれば、懐かしさとともに喜びを覚えるほどだ。キッチンから地続きである居間に置かれた、久しぶりのソファの座り心地を確かめつつ、つけっぱなしのテレビを眺めながら俺は言った。
「寧ろあいつは俺のおかげで規則正しい生活を手に入れたってほど貢献してるよ。ところで妹はまだ? あいつに用があって帰ってきたんだけどな」
「あら、もうこんな時間なのにねえ。今日は部活って言ってたから、もう少しかかるかしら」
「え、いっつもこんな遅いのかよ」
あのちまかった妹も、今や俺の高校の後輩になってしまった。飽きるほど見ていたあのセーラー服だって、二年前に初めて実の妹が袖を通した時には、なんとも感慨深くなったものだった。背も伸びすっかり女らしくなって、曲がりなりにも兄としては、なんだかんだと心配なんである。
「あらやだ、シスコン」
母親が笑って芋を剥く手を止めた。玄関先から派手な扉の開閉音とともに、甲高い「ただいまー」が聞こえてきたせいだ。ばたばたと騒がしく廊下を駆け抜ける足音が響き、それはまっすぐにこちらへと向かってきた。
「あー疲れたなあ、今日のご飯何?」
胸元の臙脂色したリボンを揺らしながらリビングに顔を出した妹は、そのまま腰に手を当ててこちらに仁王立ちに向き直った。誰かさんを彷彿とさせるポーズだ。こんなところにまであいつの悪影響が出ているとは。ちなみに憧れなんだか知らないが、髪型までそっくりなのには辟易する。しかしなあ、てっきりこいつは朝比奈派だと思っていたのに、とんだ期待はずれだ。まああの黄色いカチューシャを付けていないだけましか。
「キョンくん、なんでいるの?」
「なんでとはなんだ。ここは俺の家だろうが」
「だってえ、出ていっちゃったんじゃん。今古泉くんの所でしょう? あ、もしかして喧嘩しちゃったの? やーだ、早すぎるよう、まだ一週間でしょ」
「してねえ、つうかお前に用があって来ただけで、それが済んだら帰るよ」
「なんだ」
間際まで怒ったような笑顔(これもまた誰かさんそっくりで、はたはた嫌になる)を見せていたかと思いきや、すぐにぶーたれた顔をする。まったく思春期の娘とは扱いにくいもんであるな。
「で、用って何?」
隣に腰掛けた途端、ハルヒに負けないくらい大きな瞳をくるりと動かしこちらを覗き込んだ妹に、俺は本日の目的を告げる。
「ああ、すまんがお前の中学ん時くらいの、もう着てない洋服を幾つかもらえないか?」
「え、別に構わないけど……えーと、何に使うの?」
予想していた通り、相当不信感をもった視線がこちらを突き刺してくる。そりゃあ、急に来た兄貴がいきなり自分のお下がりを寄越せと言ってきたら、普通の女子高生ならまずヒく。かなりヒく。しかしそんなことも計算の内だ。もちろん用意周到にでっち上げの言い訳を用意していた。
「それが、俺の大学ん時の友達の実家が火事にあってな、家財道具から何から全部焼けてしまったんだそうだ。まあそいつ自身は離れて暮らしてたから問題ないんだが、可哀想なのは中学生になる妹で、それこそ着る服すら全部焼けちまったらしい。年頃の女の子だし、毎日おんなじ服ってわけにもいくまいて、できたら昔の服を譲ってくれる人を捜してるって言うからさ。ちょうど中学ん時のお前と同じくらいの体型らしいし、ちょうどいいかと思って。どうだ、不憫な友人の妹のために、ちょっと服を恵んでやってはくれないか」
自分でも驚くほどに舌が回ったね。二枚舌とはよく言ったものだ。話を聞き終わる頃には、妹はすっかりと青年海外協力隊の入隊ガイダンスで、アフリカの食糧難の実態についての講演を傍聴した学生みたいな表情になっていた。
「あたしの服でその子が幸せになれるんなら、いくらでもあげるよ! もう段ボール一箱分でも持っていって! すぐに用意するからちょっと待っててね」
なんか学校に行けない子ども達に鉛筆とノートをプレゼントしよう、みたいなノリで、一種の使命感を瞳にたぎらせつつ、妹は自室へとひっこんだ。どうやら先ほどまで自分の神経を支配していた空腹感すら忘れているらしい。正義感の強いところは兄として誇りに思うべきだろうか。
話を聞いていたらしき母親が、みそ汁の鍋をかき混ぜながら、
「火事なんて最近あったかしら?」
などと変に鋭いことを言い出したので、俺はまた追加の言い訳を考える羽目になった。
「あいつん家は隣県のしかも南の先のほうだからな、この辺じゃニュースにもならんような所だ」
そう言うと母親はさして興味もなさそうな声で、「ふーん」と呟いた。
>>たずねる
非常に居辛い。自分の家だというのに。
黒曜石みたいな二つの目がじっとこちらを向いていて、どうにも落ち着かない。
「あの、長門さん? 食べないんですか?」
目の前に広げられているのは、デリバリーのピザLサイズにチキンバスケット、それからシーザーサラダと一リットルのウーロン茶。二人で完食するには些か量が多いように思えるが、目の前にいる小柄な少女の胃容量を考慮した上でのことだ。
彼女の視線は僕とテーブルの上を何度か往復した後、マルゲリータの真ん中にちょこんとのったバジルの葉っぱに固定された。
「彼は」
真っ黒な瞳に、蛍光灯の小さな光と緑色が反射して、北欧の湖水のような色をしている。それは心なしかゆらゆらと揺れているようにも見える。
彼女は彼がいないと、普段以上に無口になり、その上、気のせいかもしれないが、彼女は僕をあまり信用している風には見えなかった。彼のいる時には感じられない、ぴりぴりとした空気を纏っているようにも思えた。だからか僕はどうにも居たたまれない。よく考えてみれば、彼女とこんなにも長時間(と言ってもたった二、三時間程度であるが)二人きりでいることなど、初めてではないだろうか。
「彼は実家に帰っているそうですよ。夕飯を食べて帰ってくると言っていたので、少し遅くなるのではないでしょうか」
言いながら僕は彼女の様子にひっかかりを覚えた。彼からの電話で確か、「長門には伝えてある」と伝え聞いたはずなのだが。しかしすぐに思い直す。おおかた彼が声を掛けた時、彼女は本に夢中で気づかなかっただけだろう。
「そう」
彼女はそう答えると、おもむろにピザに手を伸ばした。かと思えば、もう少しのところで、ぴたりと手を止めた。そのポーズのまま、彼女は僕の顔をじっと見つめている。何かを言いたげに、しかし何も言わずに見ているだけだ。僕はどうしようもなくなり、とりあえず困ったときには浮かべてみる差し障りのない笑顔のまま、首を傾げてみると、彼女はそれを真似してか、僕の傾げたのと同じ方向に、首を傾けた。
そこでやっと思い至る。彼女は食べ方が分からないのだ。
「長門さん、これは、こうやって。端っこを持つんですよ。チーズが熱いから気をつけて。溶けたチーズはこうして、何度か生地にからめとるといいですよ。生地が薄いから、半分に折り曲げると食べやすい」
説明を加えながら実際にやってみせると、彼女は僕の言った通りに恐る恐るピザを持ち上げ、やっとのことで口に入れた。その瞬間驚いたように目を見開いた彼女の表情は初めて見るもので、僕は内心なんともいえず、不思議な気分になったのだった。
そう言えば、僕の家の蔵書には確か、ピザの食べ方が記された本はなかったはずだ。
彼からの電話の内容を思い出す。彼が今晩実家に帰った理由は、彼女のために妹さんのお下がりの洋服を貰うためだ。彼女は着の身着のままここにやってきたため、着られる洋服が北高の制服のみだったのだ。さすがにあの格好のまま、昼間から町を歩いていては、間違いなく補導対象になってしまう。だから彼女はこの一週間、一度も外に出ていなかった。家の中では、僕の予備のTシャツや、彼が買ってきた男女共用と思われるスウェットで過ごしていたのだが、それも外出できるような服装ではない。
『だから長門が外に出れるような普通の服貰ってくるわ。さすがに男の身で女物の洋服買うのも気がひけるしな』
電話口で彼はそう言った。僕が「それでどこに連れ出すつもりなんですか」と訊けば、彼はこう答えたのだった。
『あいつを図書館に連れていってやりたい』
彼女はまだ、何も知らない。僕の家の本棚だけで、世界は完結しないということすら、彼女はまだ分からない。
「長門さん」
僕の呼びかけに彼女が顔を上げた頃、既にピザは四分の一程度にまで減っていた。シーザーサラダも、申し訳程度にクルトンの欠片とレタスが数枚残されているだけで、チキンバスケットに至っては、もう骨だけの姿になってしまっている。
「もっと世界が知りたいですか。この家だけではなく、もっとたくさんの本がある場所や、町や、海や、山、色んな所に行ってみたいと思いますか?」
彼女は数秒間じっとこちらを注視して、それから食べかけのピザを小皿に置くと、機械仕掛けの人形みたいに、ゆっくりと首を上下させた。
「知りたい」
彼女は小さく、しかし存外しっかりとした口調で、そう言い放った。そうしてから、再びピザを頬張った。その姿がまるでリスみたいで、僕は思わず笑みをこぼしてしまう。彼女はそんなこと気にもかけずに、もごもごと咀嚼を続ける。
「そうですか。それでは、今度の日曜日、図書館に行きましょう。僕と、長門さんと、彼と、三人で」
その言葉に再び彼女はこちらを伺うと、口いっぱいのピザを飲み込んでから、もう一度頷いた。ぱっと見彼女の表情は変わらない。しかし僕の思い違いでなければ、彼女は今、とても嬉しそうに見える。
「わたしはもっと知りたい。この世界のことを、成り立ちを、たくさんの知識を。言葉だけでは足りない。言葉はそれ自体を使う知識がなければ、何の役にも立たないから。それを知ることができれば、きっと分かることがある。わたしや、あなたや、彼の存在する意味も」
彼女は時折、こちらがぎょっとするようなことを口にする。それも以前の彼女が絶対に言わなかったようなことだ。その度僕は、妙な不安にかられる。その内、何か考えたくもないようなことを、暴かれるような気がしてならない。
今この瞬間にだって。
「あなたは。あなたが知りたいことは、何」
僕の知りたいこと。一体それはなんだろう。
>>える
わたしがそう言った時、彼はひどく困った顔をしたように思う。実際に彼が困っていたのか、またその表情がほんとうに困ったと表現できるのかは、判別がつかない。しかしわたしは、彼のその表情が、「困った」状態を表しているのだと認識した。
わたしが知りたいことは、数え切れないほど存在している。まずもって自分自身というものが、わたしには何も分からないのだから、彼らよりもずっと、知るべきことは多いだろう。
だからわたしは嬉しいと感じた。目の前の彼が、それを認めてくれたのだと思ったのだ。彼は図書館へ連れて行ってくれるという。わたしと、彼と、そして。
その提案がされるつい先程まで、わたしの内には、外へ出たいという欲求の欠片も存在していなかった。この狭いのか広いのかすら分からない部屋の中の世界で満足しているつもりだった。
しかし今はどうだろう。一刻も早く外へ出て、もっと新しい知識を得たい。ここにあるよりもずっと多くの本が収納されている場所があり、本に書かれている現象が実際に体感できる場所があり、そしてわたしはこの二本の足を動かせば、この身一つでそこへ行くことができるのだ。どこまでも、わたしの望むままに。
せつな、世界は広がりをみせた。
この世界には、終わりがないように思えた。
鼓動が脈打ち、息ができなくなるほどの興奮が体中を駆け巡る。ある種の神経伝達物質の放出。
こんな感情の高ぶりを、彼ならばなんと説明してくれるだろう。
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