見慣れた風景に、異質な存在。それは彼だった。
広いグラウンドのど真ん中に、彼は一人ぽつんと立っていた。
「一体どうなってんだ、古泉」
眉をひそめた彼が、忌々しげな口調でそう問いかけてくる。こんな非常事態にありながらも、随分と落ち着いているように見えた。
「単刀直入に言いましょう。あなたはあちらの世界から、消滅しています」
さすがに小さく目を見開いて、彼は絶句した。血の気はもとよりなかったように思う。ここには光がないから仕方がない。彼の顔色は青白いというよりは寧ろ普通には存在しないような色をしていて、それはどこを見回しても同じだった。同じように、どこもかしこも、灰色をしていた。
無意識なのか、彼は空を仰ぎ見る。僕もつられて同じように上を向いた。灰色の空には、雲一つなかった。どこまでも続く、煤けた空の色。
「目が覚めたらここにいた。前と同じだよ。一つ違うとすれば、他に誰もいないってところか。ハルヒも、お前も、いなかったもんな」
部室に入るなり彼はいつものように、何故か手にしていた鞄を机の上に放り投げた。この世界に電気が通っていることは、僕も彼も承知している。蛍光灯をつけ、電気ポットの電源を入れ、ここにも存在している朝比奈さんの茶葉コレクションから適当なものを選び、急須に放り込み、お湯を注ぎ入れるまでを、彼はまるで手が覚えているみたいに滑らかに、一人で全部済ませてしまった。ついでにいうと、校舎内への侵入の際の少々乱暴な作業も、手慣れたものだった。
湯のみに注いだばかりの熱い緑茶を啜りながら、いつもの席に腰を下ろした彼が言う。
「ここはどこだ。あの閉鎖空間と同じものなのか?」
「厳密に言うと、少しだけ違います。通常の閉鎖空間は、彼女の精神が現実空間にあぶれだしている状態のものですから、あちらとこちらの狭間に歪みがあり、そこから僕ら能力者は侵入できるのですが、ここは外とは接していない。まったく独立したひとつの空間です。だから終わりがない。世界中、どこまで言っても灰色のままなんですよ。ここはそうですね、いわば彼女の精神の、一番奥の部分そのものなのだと思います」
言葉を一つ一つ飲み込みながら考えている風な彼は、向かい側に座った僕をじっと見ながら、「で、」と呟いた。
「これはハルヒの仕業なんだよな。まず状況を説明してくれ。なんで俺はこんなとこにいるんだ」
彼の全身から、気怠げなオーラが漂っている。その目は、何故俺がこんなことに巻き込まれないといかん、と雄弁に物語っていた。まだ彼は分かっていない。この状況が、どれだけ大変な事態なのかということを。
「先ほど言いましたよね。あなたがあちらの世界から消えていると。もちろん涼宮さんのせいなのは言うまでもないのですが、これは今までの事態とは勝手が違うんですよ。まず僕らはここを壊すことができない。何故ならご覧の通り、《神人》がここには存在していないからです。僕らの能力では《神人》を倒さない限り、閉鎖空間を消滅させることができません。しかし本来なら開くはずのない空間に、どうしてあなたが閉じ込められているのか? これは僕の憶測ですが──」
憶測のおく、まで言った辺りで、彼の眉間の皺がますます深く刻まれることとなった。またそれか、と言いたげな表情。しかし説明を望んだのは彼のほうだ。僕は意識的に真面目な表情をたたえて、話を続ける。
「涼宮さんが、あなたの消滅を望んだからです」
その瞬間、お茶を飲もうと湯のみを持ち上げた彼の手が、宙で制止した。ゆっくりと降ろされる手の先は、微かに震えている。眉間の皺はなくなったが、その代わり、呆然と明らかなショックが混ざりあったような目をしている。
「ただ消滅を望んだのではありません。あなたを手に入れながら、表面上消えたように見せる、そういう風に望んだから、このようなややこしい事態が引き起こされているのです」
「なんで……」
そう呟く彼の声は不安定に揺らいでいる。僕はそれを遮るように口を挟んだ。
「彼女が、自分自身に絶望したからです。厳密に言うと、あなたに恋愛感情を抱いている自分自身に、です」
言いながら僕は、さてどういう顔をしようかと悩んだ。今笑えばきっと彼は僕を信用しなくなるだろうし、だからと言って深刻な顔をすれば余計に不安を煽るような気がした。こういう時に作るべきポーカーフェイスの種類を、もっと教えておいて欲しかった。笑顔よりもよほど、役に立つのではないか。
結局僕はどうしようもなくて、いつもの微笑を作り出す。
「彼女は恋愛感情など精神病の一種だと仰ったそうですね。他人の恋愛事には口を挟まないけれど、自分がそのような感情に冒されることには否定的だった。そしてあなたに対しても。あなたが誰かを好きになることを、彼女は嫌悪していませんでしたか。恋愛など下等な感情だと、つまらないものだと、彼女は自分に言い聞かせて生きてきたのです。自分と同じ立ち位置にいて欲しいあなたにも、当然同じ価値観を持つことを望んでいる。さてこの思考がどのような答えを導き出すか、考えるまでもありません。自分の思いも、相手の思いも認められないのに、その思いが成就するはずもない。それどころか、成就すること自体を否定しているのと同義です。そして成就しない思いを抱えて生きていけるほど、彼女は強くもなければ、達観してもいない。とうとう立ち行かなくなった彼女の思いは、原因を曲解して、自身を守り始めます。つまり原因──その相手すらいなくなれば、自分は辛い思いをしなくても済むと」
「それで、それで俺がこんなとこに閉じ込められてるってのか!? ……ふざけんな。大体、あいつが俺に恋愛感情なんか……」
肩を竦める僕の台詞にかぶせるように、彼が半ば叫びに近い声を上げた。さっきの不安げな表情にプラスして、今度は怒りの色までみなぎっている。彼はきっと今、自分がとばっちりを受けたのだと思っていることだろう。しかしそれは違う。少なくとも、彼にだって多少は責任があるのだ。彼女の思いから目を逸らし続けた、彼には。
「あなたもよくよく都合の悪いことは、見ないふりをなさいますね。いい加減認めてはどうです。彼女はあなたが好きなんですよ。何度も言っているでしょう。あなたの本心がどうであれ、今この事態を作り出しているのは、涼宮さんのあなたへの感情なのです。それだけは分かってください」
彼は乱暴に机に手を振りかざすと、次に隣に置かれた空のパイプ椅子を蹴り倒した。静かなこの空間では、その音は耳をつんざくような大音量に聞こえる。残響がハウリングするように、いつまでも居残り続けた。
「……くそっ」
彼がぼそりと呟く。今まで一度として見せたことのないような表情を浮かべながら。
「それで、どうやったら出れるんだ、こっから」
「さあ」
彼は僅かに顔を歪ませた。既に口調からも、先ほどまでの余裕はまったく感じられない。退っ引きならない状況だということを、嫌というほど実感しているのだろう。
「さあって、お前。大体、お前はどっから入ってきたんだよ」
「それがですね。僕は願えば入れるんですよ。そして出ることもできる。他の仲間は誰もここに入ることができません。僕だけなんです」
僕がそう言うと、彼は一瞬、小さな希望を見つけたような目をした。期待をさせてしまったことに、ほんの少しだけ後悔を覚える。彼は今にも机ごとこちらに倒れてきそうな勢いで、体ごと手を突き出しながら言った。
「じゃあ、俺も一緒に連れてってくれよ。ほら、前みたいに手をつないで引っ張ってもらったら、一緒に向こうに行けるんじゃないか?」
「……試してはみますが……あまり期待しないでください」
僕は差し出された彼の両手を掴んで、それから強く目を閉じて念じた。ここから出たいと。
目を開けると、やはり彼の姿はなかった。
僕は再び思う。そこに入れてくれ。そうしたらすぐに、辺り一面が灰色に変化する。なんと簡単なことか。普段の閉鎖空間に出入りするよりも、余程容易かった。しかし彼にとっては、それが空を飛ぶよりも難しいことなのだ。
「だめでしたね」
目の前の彼は、声を掛けるのをためらうほどにひどい顔をしていた。まるでノストラダムスの予言を初めて耳にした小学生のように絶望的で、そのまま脱力したかのごとく机につっぷした彼に、僕はそっと手を伸ばした。少し固い髪に触れると、大げさなくらい肩を揺らして彼は呟いた。
「触んな……ほっといてくれ」
くぐもった声が聞こえてくる。震えてはいたが、泣いている気配はなかった。やはり彼は強い。きっと動じているように見えて、その実ものすごい勢いで頭を回転させているのだろう。
「もうお前戻れ……明日も学校だろ。戻って早く寝ろ」
ここで二人でこうしていても仕方ないから。そう言って最後、彼は押し黙った。
そう言われてしまってはどうしようもない。僕はしばらく彼の前に立ちすくんでいたが、いつまでたっても顔を上げない彼にとうとう諦め、そのままその場を後にした。
目を開けると真っ暗な空間。電気が消えているのだから真っ暗なのは当然のことだ。光を反射しない灰色よりは、ずっと自然だ。窓の外に目をやれば、遠くに煌々と灯るビルの光。さっきまで彼が伏せていた部室の長机には、もう誰もいない。放り投げられた鞄もない。椅子にそっと触れても、温もりすら感じられなかった。冷たいままのシートに僕は腰を下ろす。
僕らは今、位相を超えて、重なっている。
そう考えたら、苦しくなるほど悔しくて、しかし僕はそれを古ぼけた机にぶつけることしかできなかった。
次の日、僕はどうしても気になって、朝一番に二年五組の教室を覗いた。彼女が教室の一番隅の席に座って、何やらノートに書き記しているのが見える。じっと見つめていると、彼女は視線に気づいたように顔を上げ、それから僕を注視しながら驚いたように目を見開いた。と同時にこちらに駆け寄ってくる。
「古泉くん! どうしたの?」
朝から妙なハイテンションで、涼宮さんは笑いながら僕の肩をばしばしと叩いた。廊下の外にまで響き渡る大声のせいか、教室内の注目を一身に集めていて、少々居心地が悪い。
「ええ、どうも。申し訳ないのですが、今日は夕方からバイトがあるので、団活をお休みさせていただけないかと」
「えーまた? しょうがないわねえ。そのかわりバイト先で不思議なものを目撃したらすぐに報告するのよ!」
「了解しました」
出来過ぎなくらいのスマイルを浮かべての受け答えに、彼女は満足げにうんうんと頷いている。そうしてさりげなく本題を切り出してみた。もちろん現状を鑑みるに、答えは分かりきっていたのではあるが。
「ところで涼宮さんの前の席の……」
「ああ、阪中? 元気よ、相変わらず。またみんなでJ・Jに会いに行きましょうよ。あのシュークリームも食べたいしねっ」
「……そうですね、団員皆で」
「そうよ、こないだはあたしと有希だけだったんだから。次はちゃんと四人揃ってじゃないとね」
予想していたとはいえ、現実に突きつけられるとなると、また違ったショックを感じる。僕は曖昧に返事を返し、そのまま急いで部室へと向かった。少なくとも僕以外で現状を把握している者に、会わなくてはいけなかった。
扉を思い切り開くと、音もなくこちらに顔を上げた彼女が僕を見据えていた。
「本日午前一時十三分、この世界は改変された。彼の存在は、わたしたちを除く全人類の記憶から抹消されている。もちろん、涼宮ハルヒの記憶からも」
淡々とそう告げる彼女はいつも通りの無表情を装っていたが、どことなく悲しげに見えるのは僕の気のせいだろうか。口を開こうとした瞬間、またも部室のドアが音を立てて開かれた。まさかと思わず身を引きつらせたが、その訪問者は泣きそうな顔をして、きっと全速力で走ってきたのだろう、胸の辺りで両手を組み肩で息をしている。
「キョンくんが、キョンくんがぁ……」
「朝比奈さん、落ち着いてください。今、そのことで長門さんと話をしようかと」
「あ、朝、未来から連絡が……つ、鶴屋さんも、知らないって……誰よそれなんて、ひどいです……どうしましょう、どうしたらいいんですか?」
「とにかく、落ち着いて。お茶を淹れますから、そこに座ってください。長門さん、彼女に詳しい説明をお願いします」
長門さんと向かい合わせに彼女を座らせ、僕はお茶を淹れる用意を始めた。同じ動作をする内に、昨日の彼を思い出し、苦々しい気持ちが胸の中でわだかまる。ポットの給湯口に急須を当てながら、今、この空間に彼はいるのだろうかと、嫌でも考えてしまう。長門さんの説明を遠く耳にしながら、僕は一生懸命、別世界の彼のことを思い出さないよう努力をした。そうでもしないと、とてもじゃないが冷静さを保っていられない。
「朝比奈さんほど上手くは淹れられませんが、どうぞ」
三人分のお茶を配り、僕はとりあえずと朝比奈さんの隣に腰を下ろした。予鈴のチャイムが鳴り響く。今日の一限はとうに諦めていた。
「ありがとうございます……ぅく、ごめんなさい、取り乱しちゃって。ひっく、あたし、ここでは一番年長なのに……恥ずかしいな。でも長門さんからお話を聞いて、大体の事情が分かりました。あたしには何もできそうにないですね……上に指示を仰いでも、待機と返ってくるばっかりで……っ」
言い終えると同時に、彼女は我慢できないといった風に、苦しげな嗚咽を漏らした。慰め程度に彼女の背中を撫でながら、僕は長門さんの方へと向き直る。
「長門さん、あの閉鎖空間を破る方法は、ありませんか」
彼女の黒いあめ玉みたいな目が僕を射抜いた。
「あなたも分かっているはず。あの世界は涼宮ハルヒの精神そのもの。それを無理矢理こじ開ければ、彼女自身に弊害がでる。最悪の場合、心神耗弱や脳神経への障害も危惧される」
分かっている癖に、と言われたような気がした。あの空間は、物理的に壊すことも、消すこともできないのだと。
彼女はいつも冷静で、取り乱すことなど決してない。今回のような非常事態でも、それは変わらない。その冷静さが今はとても心強かった。錆び付いたみたいに動かない伝達回路を、無理矢理コネクトさせる。
あの場所から彼を助け出すには、涼宮さんの気持ちを変えるしか、方法はない。
「しかしそれでは、どうしたら? 彼女がどのように気持ちを変化させれば、彼のことを必要だと思い直すのでしょう」
朝比奈さんはぐずぐずと鼻を鳴らすばかりで、言葉すら口にできなくなっている。対する長門さんは無言。この会議はあまりにも無意味に思えてくる。思わず小さく舌打ちしてしまい、それを耳にしたのか朝比奈さんがびくりと肩を震わせた。自然と眉間に力が入っていたのにも気づき、僕は溜め息を吐いた。目を瞑り、肩の力を抜くよう意識する。こんなことではいけない。こちら側にいる人間が、せめてしっかりしなければ。あちらにいる彼には何もできないのだ。
彼は今どうしているだろう。一人で不安になってはいないだろうか。
「うわ、なんだ、古泉。急に現れて」
いきなり聞こえてきた声に驚いて目を開けると、彼もびっくり眼でこちらを見ていた。彼は隣に座っていた。そうか、朝比奈さんを座らせた席は、彼のいつも座っている椅子だったのだと思い出す。
「ああ……すみません、おはようございます。実は今ここに皆で揃っていたのですよ。ちなみに今あなたが座っているところには朝比奈さんが」
そう言うと、彼は思わず、といった風情で椅子から飛び退いた。それから思い直したように座り直す。
「あー思わず退いちまった。朝比奈さんには言うなよ古泉。なんとなく。しかし感触……までは届かないよなあ、やっぱり」
そう呟く彼は、どことなく寂しそうに笑っていた。こめかみのあたりが、ずきずきと痛む。
「今、あなたをここから出す方法を皆で話し合っていたんです」
僕の台詞に、彼はあからさまに安堵の表情を浮かべた。そのままずるずると、椅子の背もたれに力なくもたれ掛かる。
「よかった……一応覚えられてんだな、俺。てっきりまた、全員の頭ん中から消え去ってるもんだと」
その言葉に、真実を告げるべきかを迷った僕は、しかし結局ほんとうのことは言えなかった。これ以上、彼にストレスとなる要因を与えるわけにはいかなかった。一日経って落ち着いたようには見えても、それはきっと、僕がここにいるせいなのだろう。この部室の状態を見れば分かる。書棚中の本は抜き取られ床に散らばっているし、ハンガーラックに掛けられた衣装は所々破れて、下に落っこちていた。
「皆、あなたを心配していましたよ。朝比奈さんなどぼろぼろ泣いてしまって。宥めるのが大変でした」
それを聞いて、彼は少しだけ口元を緩めた。
「ああ、またあの人は。すぐに泣くからな。泣いたらますますウサギっぽくなっちまうから心配なんだよな。オオカミに気をつけろよ。つうかお前がオオカミになるなよ。……なあ、ハルヒは、」
「涼宮さんには、風邪でお休みだと言ってあります。随分心配していましたよ」
それからしばらく、僕は彼の隣に並んで座っていた。話せば余計なことを言ってしまいそうで、口を開けずにいた。彼も同じだったのか、何も話そうとしない。気づくと彼は机の上で、強く拳を握りしめていた。まるで何かを我慢しているかのように。もしかして、今、彼は叫んで暴れだしたいのではないかと、僕は思った。
そうだ、こんな風に何も話さずにただ隣にいただけでは、まるでひとりぼっちでいるのと同じじゃないか。握り込まれた手はぶるぶると震えていて、もしかしたら手のひらには爪が食い込んで赤くなっているかもしれない。きっとよくないことだ。我慢をするのも、自身を痛めつけさせるのも。
僕は思わず彼の拳に手を重ねていた。驚いたように顔を上げてこちらを見る彼は、なんとも情けない表情を浮かべていた。
「力を抜いてください」
そう言って手を握ったり離したりしていると、彼は怒ったように目を逸らしたが、よく見ると耳の端が赤く、どうも照れているように思えてきた。そのうちゆっくりと、彼は手を広げ始めた。その手のひらを包み込むように、僕は指をからめる。少し力を込めると、彼の冷えた手はだんだんと温かくなってゆくようだった。
「体温のお裾分けですね」
空調施設も何もないこの部屋に一人でいれば、当然体も冷えてしまうのだろう。小さな電気ストーブも、今は部屋の隅で埃をかぶったままだ。自分の体温を移すように、指のひとつひとつを順番に握りしめる。それを何度も何度も、繰り返す。
突然、ぽつりと冷たいしずくが手の甲に落ちてきた。
それは彼がこぼした涙だった。
「こっから出たい」
一言だけ呟いた言葉は、魔法のように彼の心のつっかえを取った。堰を切ったように彼は、涙と、他にも色んな感情をたくさん流した。押し付けるように、僕の肩に頭を預ける。涙がブレザーに染み込んでくるのが分かる。彼はいつの間にか、僕に腕を回して抱きつくような形になっていた。まるで確かめるように彼の手は、僕の背中を撫でたり、叩いたりを繰り返す。それは他人の感触を味わいたいゆえの行動なのだろう。生き物の気配すらない世界での、恐ろしいほどの孤独。彼はここから出られない限り、延々とそれを感じ続けなければならない。
彼が泣き止むまで、僕はずっと彼の背中をさすり続けた。
「……悪ぃな」
鼻声で彼は言う。泣きはらした目が真っ赤になっていて、それでも幾分落ち着きを取り戻した、普段通りの彼に近い口調だった。未だ彼の頭は僕の肩で支えられている。彼の両腕は僕の背後に回り、腰の辺りで組まれていて、僕はずっと動けずにいた。昨日は触れることを拒否された頭に手を伸ばす。髪を梳くように撫でると、何も言わず彼は僕の体に体重を預けた。
「少し眠い……」
きっと夜中眠れなかったのだろう、だんだんと肩にかかる彼の頭が重たくなってくる。彼が目を閉じるのを肩から感じた。
「寝てください。少し休んだほうがいい」
頭に手を乗せたまま、僕は彼の耳元で囁いた。
こんな体勢で寝ていては疲れも取れないだろうと、僕は眠ってしまった彼を背負いひとまず、保健室へと連れて行った。暗い新校舎の端に位置する奥まったそこは鍵もかかっておらず、なんの遠慮もなく入ることができる。入り口に近いベッドに彼を横たえると、僕はベッドサイドの丸椅子に腰を下ろして、なんとなく時計を見遣った。針は十二時過ぎを指している。今日は学校を休むか、などと学校の中で考えているのも変な気分だが。今から向こうに戻っても午後の授業を受けるだけだ。それに彼を今一人にするのは気が退けた。目が覚めた時一人だったら、彼はきっとまたとても暗い気持ちになるだろう。
穏やかな寝息をたてる彼の顔を覗き込む。目の周りはまだうっすらと腫れているが、眠りに落ちてからは安穏な気配を保っていた。少なくともうなされてはいないようだ。彼の額に手をやると、少し微熱を持っているようだった。生え際に汗が浮かんでいる。
「知恵熱でしょうか……」
誰もいないのに、つい敬語で独り言を呟いてしまう。アイスノンはあるだろうかと、僕は備え付けの小さな冷蔵庫を漁った。
その後一時間ほどで、彼は目を覚ました。
しばらく半分意識が飛んだみたいにぼうっと宙を眺めていたが、諦めたように体を起こし、それでやっと胸元にずり落ちてきたアイスノンに気づいたようだった。首の後ろに手をやり、ひねるように頭を振る。
「お腹は減っていませんか」
食欲があるようにはとても見えなかったが、一応尋ねてみると、彼はゆるくかぶりを振って、ようやく薄い笑みを浮かべた。
「腹が減ったら購買のパンでも食うさ」
そう言った彼に、僕はペットのミネラルウォーターを手渡す。これも購買から持ってきたものだった。ただでいただくのは多少良心の呵責があったが、ポケットに小銭すら入っていなかったから仕方がない。350ミリリットルをほとんど一気に飲み干した彼は、こちらを見てまた笑った。
「さんきゅ。すげえ喉が渇いてたみたいだ」
重たげに体を持ち上げ、彼はベッドから這い出ようとする。焦って彼の肩を押さえつけると、彼は困ったようにこちらを見上げてきた。
「もう少し寝たほうがいい。少し熱があるようですから」
僕の問いに答えるように、肩に掛けられた手に自分のそれを重ねてから、彼はゆっくりと首を横に振る。
「いや、大丈夫だ。早く部室へ……戻りたい」
「どうしてです」
「あそこでないと、落ち着かないんだ」
よく見ると、今にも泣きそうな目を、彼はしていた。
帰り道、購買に寄って大量にペットボトルの水と、いくつかパンを見繕ってから、僕たちは部室へ戻った。
「お前、授業はいいのかよ」
定位置についた彼は、机に広げられたパンの中から小さな蒸しパンを選び取り、それをちまちまと啄んでいる。
「今日はもう諦めましたよ。夕方に一度、『機関』に報告に向かわないといけませんが、終わったら夜にまた来ます」
窓の外をふと見遣ると、やはり灰色の空間が何の表情もなく一面に広がっていた。光源もないのにほのかに明るく感じられるのは、単純にこの世界の灰色の明度が、それほど低くないからだろう。部室内は電気がついているから、現実の空間とそう変わらない。ただ無人なだけの、いつもの部室にしか見えなかった。
「……探してたんだ」
唐突な彼の言葉を聞き、僕は思わず対面に目を据えた。
「何をです」
「長門からのメッセージ」
ああ、それでか。部室を見回すと、なんとなく合点がいった。あの床に散らかされた書棚中の本から、彼は長門さんのメッセージを探し出そうとしていたのだ。前回の閉鎖空間でも、その後巻き込まれた改変世界でも、彼は長門さんからのメッセージによって、無事帰還を果たしたそうなのだから、今回だってそれを期待したっておかしくない。
しかし彼はゆるくかぶりを振り、その表情には諦めの色が濃く表れている。
「でもなかった。栞の一枚だって。パソコンも電源すら入らない。部室中隅々まで漁ったけど、何にも出てこねえ」
それきり彼はまた黙り込んだ。こんなにも情緒不安定な彼を見るのは初めてだった。十二月の改変世界での出来事を話す彼が、自嘲するように自分の自失さ加減を表現していたのを思い出す。僕は大袈裟な誇張だと思っていたが、今の彼は聞き及んだあの時以上に、平静を失っているようだ。この部屋の惨状だって。きっと最初の内は、一つ一つの本を丁寧に探そうとしていたに違いない。しかし、見つからなかった。そしてその怒りや苛立ちをぶつけられるのは、ここでは無機質以外に存在していない。
それでも、こんな状況だって彼は気丈さを保とうとがんばっていたし、その目はまだ諦めきっていないように見えた。
僕が今与えられるものはなんだ? こんな時に小賢しい知恵など何の役にもたたない。
もっと、原始的で、人間らしい、何か。
「オセロでもしますか」
彼は僕の言葉に一瞬瞠目し、それから安心したように微笑む。
「一回だけな」
結局四回勝負を繰り返し、最後まで彼の全勝で終わった。
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