ひかりの讃歌 中編


 それから僕は暇さえあれば、彼のいる空間へと行き来した。昼休みの短い間にも、団活の後も。何せ念じればすぐに向かえるのだから、手間も暇もかからなかった。僕は始発とともに学校へ向かい、終電間際まで部室に入り浸った。どれだけ朝早くても、夜遅くても、彼は起きて僕を待っていた。
 彼が閉じ込められてから、三日ほど経った。
 その頃には、彼は僕が現れる瞬間の感覚が分かるようになったらしく、急に姿を見せる僕に驚かなくなったし、やけに嬉しそうな顔で僕をこの世界へと迎え入れた。
「皆元気か」
 会う度、彼はそう言った。僕はその度、ちくちくと胸が痛んだ。
「ええ、元気ですよ。でも皆あなたに会いたがっています」
 真実は、とても口にできるものではなかった。
 朝比奈さんは、日に日にやつれてゆくようだった。団活中もずっと目は虚ろで、メイド服は纏っているもののお茶も淹れずに、ずっと窓際に置かれた椅子に座り込んでおり、そのせいで涼宮さんは不機嫌だった。涼宮さんは十分刻みに、つまんない、ほんと退屈、ああむかつくわ、と呟きを繰り返し、眉をひそめてネットサーフィンをしたり、気の抜けた朝比奈さんの髪型をいじり回したりして放課後を過ごしていた。そうして腹立たしげに言うのだ。SOS団に雑用係が必要ね、どうしていないのかしら、と。
 自分で消してしまった癖に、いつも彼女はそんな我が侭を言う。いつも、いつも。
 長門さんは、既に傍観を決め込んでいる。彼女の目的は涼宮ハルヒの観察であり、その本人が消えたりしない限り、彼女は涼宮さんの能力の保持を第一に考えて行動することとなる。それは統合思念体の意思で、彼女の本意ではないのかもしれない。しかしきっと彼女は、このまま何もできないのだろうと思う。いくら彼女自身が彼を助けたいと思っても、それは認められないはずだ。彼女の冷静さはここへきて、勇気を与える以上に、僕の焦りを増幅させた。
 やはりどうにかできるのは、僕以外にいないのだ。


 初日に持ってきたパンは、ほとんど減っている様子がなかった。水分だけは摂っているようで、部屋の隅に空のペットボトルが数本転がっている。部屋は荒れていたり、片付いていたり、来る度に違っていた。
 それでも僕と顔を合わせている間、彼はだいぶ落ち着いているようだった。ちょっとした冗談を言ったり、笑ったり、僕の冗談に不機嫌になったり。おそらく表面上は、いつもと同じような振る舞いを見せていた。
「ひとりでオセロってつまんねえよな。お前よくこんなことで暇がつぶせるな」
 今日は比較的部屋の中が片付いていた。本は一冊も床に落ちていなかったし、机も椅子も整然と並んでいる。その長机の上にはオセロ盤がぽつんと置かれていて、その周りに白と黒の駒が数個散らばっていた。僕が来るまで、ずっと一人オセロをして暇をつぶしていたようだ。
「なあ、こんど携帯ゲームでも持ってきてくれよ。ディーエスとかさ。でも頭の体操系は勘弁な。あれはどうも苦手だ」
 彼の台詞に、僕は笑うしかなかった。
「すみません、僕はそういったものは持っていなくて」
「なんだよつまんねえやつだな。高校生なら一個くらい持っとけ。どうせなら二個買って、俺の対戦相手になれ」
 彼だってほんとうは分かっている。こちら側に、あちらから持ってこられる物などないのだ。事実僕の制服のポケットは空っぽで、携帯電話も家の鍵も、何もかも消え去っている。制服と上履きだけは身につけていられるが、これだってもしかしたら、こちらの空間にだけ存在しているものなのかもしれない。
「そうですね、用意しておきます。でも僕はあまりテレビゲームが得意ではありませんよ」
 僕がそう言うと、彼は笑みを浮かべて言葉を返してきた。
「テレビゲームも、だろうが」

 次の日の朝、結局彼の所へは行けなかった。明け方に、僕たちがどうにかできる閉鎖空間が発生したせいだった。
 その日の夕方に行った時は、部屋中に本が散らばっていた。机も椅子もぐちゃぐちゃに荒れていて、僕のボードゲームコレクションは粗方、箱ごとぼろぼろに壊されていた。
 窓際の隅っこで、彼はうずくまっていた。
「大丈夫ですか?」
 恐る恐る声を掛けたが、彼からは何の返答もなかった。ほんの少し身じろぎをして、三角に折った膝を抱え直しただけだ。僕は彼の正面に回ると膝をつき、おずおずとその髪に手を伸ばした。また振り払われるかと思ったが、彼は動かなかった。何度か髪を撫でて、それから彼の頭を抱え込むように腕を回すと、彼はようやく耳に届くほどの微かな声を絞り出した。
「持ってこれないくせに……」
 僕は何も言えなかった。すうと全身から血の気がひくのが分かった。どうしたらいいのか分からなくなって、僕はただがむしゃらに、彼の体を抱きしめた。ものすごい力で。
 僕が泣いてはいけない。いけないのだ。そう言い聞かせて、こみ上げてくる嗚咽感もこめかみを押さえつけられているような感覚も鼻の奥の痛みも、何もかもを抑え込み、我慢した。
 僕は、泣くわけにはいかない。
 胸元で彼が苦しげに身をよじらせたので、僕はようやく腕の力を抜いた。僕の胸に手を当て、彼がこちらを見上げてくる。目は死んだ魚のそれのように濁っていて、虚ろげな視線はどこも見ていなかった。その黒い瞳に、僕の姿は反射してもいなかった。ここには光がないから。
「古泉……」
 すがるような声で、彼は僕の名を呼ぶ。
「古泉、古泉、古泉、」
 それは何度も何度も繰り返される。喉がかれているのか、彼の声は妙に嗄れている。ふと部屋の隅を見遣ると、空のボトルは、昨日から増えていないようだった。机の上に置かれた飲みかけのペットボトルも、中身が減っているようにはみえない。
 彼はもしかして昨日から、何も口にしていないのか?
 考える暇もなく、僕は彼の飲みかけのミネラルウォーターを引っ掴むと、中身を自分の口に含む。そのまま彼の口をこじ開け、口移しで水を喉に流し込んだ。彼は咳き込みながらもそれを飲み下し、呆然とこちらに顔を向けると、その目がやっと僕の姿を捉えた。
「ちゃんと……水分は摂ってください……お願いですから」
 彼がおかしな顔をして、僕の頬に手を当てる。不思議そうに首を傾げて。
「どうしてお前が泣きそうな顔してるんだ……」
 そう言って僕の頬を両手で挟み込んだ彼のほうこそ、今にも泣きそうな顔で、無理矢理口元を持ち上げていた。
 こんなにも悲しくてどうしようもないのに、僕はなんだかおかしなくらい、彼を抱きしめて触れてキスをして撫でて呼んで繰り返し呼んで涙を重ね合わせてその手も体温も全てを重ね合わせたくて、どうしようもなく、たまらない。
 彼が欲しくてたまらない。
 彼のくちびるにキスを落とす。
 そうして僕は、彼女に初めて共感を覚えた。
 閉じ込めるのは、欲しいからなんだと。

 どんどんと、彼の元へ行く時間が奪われてゆく。
 もう一つの閉鎖空間が俄に活発化していた。昼夜を問わず、それは現れるようになった。彼女がストレスを感じているからだ。自らの力で彼を隠した彼女は、そのせいで自身を苦しめている。
 それでも僕は暇を見て、彼のいる閉鎖空間へと向かった。
 そこへ行く度、僕は彼に触れた。彼とキスをした。手をつなぎ、抱きしめ合って、頬を寄せ合って、温かさを分け合った。彼は拒む気配すら見せず、それどころか、自ら僕に触れ、くちびるを寄せて、体を預けた。まるで僕の存在を確かめるみたいに。そうすることで、彼の中にある終わりの見えない孤独感を、少しの間だけでも忘れることができるからだろう。
 彼はますます水を飲まなくなった。しかし僕が口移しで与えれば、その水は飲み下す。いけないと分かっていながら、その事実を知った瞬間、僕は喜びにうち震えた。
 食事もほとんど摂らないから、彼は目に見えてやつれてゆく。さすがに食物を口移しする訳にもいかず、こればかりはどうにもできなかった。ただ僕がいる時は気を使ってか、一口二口はパンを口にしていた。
 一体今日で何日目だ? 一日に何度も出たり入ったりを繰り返しているせいで、時間の感覚がどんどん狂っていく。この空間の発生から、それほどの日数は経っていないはずなのだが、きっと彼の体感では、もう人生の半分近くここに一人で閉じ込められているに等しいのではないだろうか。ここには時間の流れが感じられるものが、何一つないのだから。
「古泉、今何月何日だ? 俺はいつからここにいるんだろう」
 彼の声はぎりぎり聞こえるくらいの掠れ声で、話すことすら疎ましそうだ。いつもきれいに光を映していた彼の瞳は、精彩を失い、まるで濁った池のようだった。
「実は僕にも分からなくなってきました。でもきっと、そんなには経っていませんよ。まだ期末考査だって始まっていない」
「……もう、三十年くらい経ってるような気がする。ここは時間の流れが違うのか」
「いいえ、そんなはずはありません。だったらあなたはもっと歳をとっていますよ。ただ、独りでいる時間は、長く感じるだけです」
 今日も部室はぐちゃぐちゃの状態で、それに椅子がひとつも見当たらないと思ったら、全て中庭に散らばっていた。訊けば、窓から投げ捨てたのだという。横になりたいのに、椅子が邪魔で寝転べなかった、だからだ、と彼は言った。
 最早彼には、冷静な判断も、通常の思考すらもできないのだと、僕は悟った。
 彼は壁を背にして、地べたに座り込んでいた。僕はその隣に並んでいる。お尻が冷えてしまうのではと、すでにただの布きれと化した朝比奈さんのコスプレ衣装を床に敷き、それを座布団代わりに上に座らせた。
 ずっと長い間、無言だった。彼は時折顔を膝にうずめたり、三角座りを止めて膝を伸ばしたりしていたが、決してその場から動こうとはしなかった。もう気力が残っていないのかもしれない。
 僕は彼の手をとり、指を絡めるように握りしめた。そうしたら子どもみたいな力で、握り返される。ひどい罪悪感に僕は襲われた。
 彼は僕に縋っていた。今の彼には僕しかいなかった。それを知っていて僕は、こんなにも不毛で自分勝手な思いを彼にぶつけているのだ。ひどいものだ。僕は最低の人間だ。最早彼を助ける気など、ないんじゃないか?
 だってここにずっと閉じ込めておけば、彼に会える人間は僕しかいないのだ。ここに彼を閉じ込めた張本人の彼女すら、彼に会うことは叶わない。僕だけが、彼の側にいることができる。そうだ、今だって。
「……俺はここから一生、出られないのかな……なあ古泉、そうなっても、たまには俺に会いに来てくれるか?」
「そうなったら、僕もここに住みますよ。二人で暮らしましょう、ここで」
「はは、バーカ。ハルヒみたいなこと言ってんじゃねえ……」
 彼は、それは嬉しそうに笑っていた。最低な僕を、それでも信じて疑わない。
 そんな彼を見て僕はもっと汚いことを考える。
 ほんとうに僕は、最低だ。

 その日、その空間に足を踏み入れた瞬間、僕はすぐに異変を感じ取った。
 いつもなら煌煌と灯った明かりが、今日は一つとすら光を与えていなかった。部室内は薄暗い灰色で、窓の外と同一化している。そんなはずはなかった。彼は眠る時すら、決して電気を消そうとはしなかったのだ。この部屋まで灰色に浸食されることを、彼は一番に恐れていたのだから。
 僕は焦って部屋を見回すが、彼の姿はどこにもない。暗くて見えないのではなく、正真正銘部屋の中は無人だった。ここに来た時から放りっぱなしの彼の鞄だけが、所在無さげに部屋の片隅へと追いやられている。
 スイッチに手を伸ばしても、電気が点灯する様子はなかった。彼が自発的に消したのではないということだ。
「くそ、」
 何がどうなっている。まさか自分の家に帰った訳でもあるまい。こちらにあちらのものが持ち込めないということは、彼の家の鍵もこちらに存在していないはずだ。何よりも彼は、この部屋から出ることを極端に嫌がっていた。購買に水でも取りにいっているのだろうか。それとも、ただ電灯が切れているだけなのか? それで蛍光灯を探しに備品室にでも向かったとか。
 考えている時間すら惜しく、僕は部室を飛び出すと、広い校舎内をくまなく探しまわった。五組の教室、保健室、購買、備品室、遠慮なしにドアを開く。鍵がかかっているところも職員室から失敬したマスターキーで開けて、一つ一つ見て回っていたが、すぐに意味のないことと気づいて止めた。
 僕は走り回りながら、叫ぶみたいに彼の名前を呼び続けた。幾ら広いといっても所詮は学校、閉じられた空間だ。声さえ出していればきっと彼は気づくだろう。気づいても、返事をしてくれなければ意味がないが。
 久々に、しかも叫びながら走ったせいかすぐに息があがり、一階昇降口まで来たところで僕は前屈みになりながら足を止めた。ぜえぜえと、自らの息が異様にうるさく聞こえる。見回せばこの場所も、灰色が扉に閉ざされたままの外に向かって続いている。
 正面に立ち並ぶ下駄箱の合間に、ふと人の気配を感じて、僕は顔を上げた。
 五組の下駄箱の前で、彼が座り込んでいた。腰から力が抜けたみたいに足を崩した様相で、呆然と虚空を見つめながら。僕はほっと安堵の息を吐き、彼に近づく。二、三歩進んだところで、僕に気づいたようにこちらを見上げ、彼は無感動に呟いた。
「電気が点かないんだ」
「……まさか。蛍光灯がきれているだけでしょう」
「どこもだよ。校舎の中全部、スイッチを入れたんだ。教室も、職員室も、全部の部屋で試した。でもダメだ、どこも電気が点かねえんだよ……」
「全部の蛍光灯がきれているのかも」
「そんな訳ないだろう!」
 激昂したように彼が叫び声をあげる。一、二階吹き抜けの昇降口に、それは反響音を大量に伴って広がった。身を震わせた彼は、肩で息をしながら、下駄箱にもたれ掛かる。こちらを見遣る目の色が、彼の中の大きすぎる絶望感を、嫌というほど物語っている。しばらくゆっくりと呼吸を繰り返すとようやく落ち着いたらしく、視線を落とした彼は殊更低い声で呟いた。
「なあ……ここはもうすぐ、なくなっちまうんじゃないのか……?」
 僕には答えられなかった。
 体中の血管を血液が駆け巡り、すごい勢いで流れてゆくのを感じながら、僕は初めて、言葉にできないくらいの恐怖心を抱いた。唇のわななきを必死で抑え、落ち着けと、頭の中で念仏のように反復する。
「出ましょう、ここを、早く」
「……だからどうやってだよ。出る方法なんてないだろう。ここには何もない。長門の助けだって借りられない。唯一ここに入ることができるお前にだって、俺をこっから出すことも、ここを壊すこともできない。八方ふさがりだ。何ができる? どうすればいい? お前に答えが分かるのか? ……諦める以外に、道があるってのか?」
 平坦な口調で疑問を連ねる彼の手を、僕は無理矢理ひっぱり立ち上がらせた。たとえ僕に何もできなくても、方法がないとも言い切れない。どうにかできる方法が一つでもあるとしたら、きっとそのヒントはSOS団の部室にあるはずだ。昇降口で呆然と座り込んでいるより先に、今は部室中に穴を掘ってでも、脱出口の欠片を見つけるべきなのだ。もつれる足をひきずりながら、僕たちは部室へと帰路を急いだ。
 早く。手遅れになる前に。
 彼がほんとうに消えるかもしれないと分かった途端、手のひら返したように焦りだした自分の現金さに、呆れて笑いが止まらない。つい昨日まで、ここで一生彼と一緒に暮らすのも悪くない、なんて思っていたのはどこのどいつだった?
「ほんとう、最低どころじゃない」
「何の話だ?」
「いえ、なんでもありませんよ」
 部室へ到着すると同時に、僕はひとまず家捜しを開始した。手始めに部屋中に散らばりっぱなしの本を、一冊一冊丁寧に開いて回る。彼はそんな僕を見て、困惑の表情を浮かべながら入り口に佇んでいた。
「なあ、言っただろう。俺は何度も探したって。何処にも長門のヒントすらありゃしねえよ」
「そんなの、分かりません。二人で探せば何か見つかるかも」
 言いながら顔を上げた先、ふと彼の持っていた鞄が目に入った。何故かここにある彼の鞄。
 そう、何故彼は鞄を持っていたのだろう。ポケットの中身すら消え失せるこの世界に、どうして彼の鞄だけが、存在している?
「あの鞄、中は見ましたか」
 彼は何を言っているんだ、と言いたげな目で僕を見た。そのまま件の鞄へと歩み寄ると、それを軽々しそうに持ち上げる。
「当たり前だろう。一番最初に確認したさ。でも空だよ。持ってる時から何の重さも感じなかったし、ほら、見ろよ、何も入ってないだろ」
 こちらに中身を確認させるように、鞄の口を広げて彼は言う。確かにその学校指定鞄の中は空っぽだった。
「ポケットの中だって全部確認したんだぜ。ご覧の通り、何もな……ん?」
 ポケットを一つ一つ開けてみせていた彼が、サイドの内ポケットのファスナーを開ききったところで手を止めた。眼を驚いたように見開かせ、その中に手を突っ込む。
「これ……」
 引きずり出されたのは、見慣れた彼の携帯電話だった。
「……なんでだ。こないだ見た時は何も入ってなかったはずなのに」
 震える手で持った二つ折りのそれを開き、電源ボタンを入れる。小さく起動音がなって、ウェイトモードが解除された待ち受け画面には、新着メールのアイコンが点滅していた。当然ながらアンテナは一本も立っておらず、その場には圏外の文字が表示されている。今更そんなことじゃ驚きもしない。
 居ても立ってもいられずといった様子で彼はメールを開く。その様子を僕は背後から始終覗き込んでいたのだが、送信者の名前を見た途端、さすがに二人して驚きのあまり、しばらく声が出せなかった。
「長門……」
 彼女からのメールには、こうあった。
『このメールを見ているということは、あなたは現在危機的状況に置かれているだろう。その状況を、わたしにはどうすることもできない。物理的な解決法は存在しない。動かすことができるのは、彼女の心のみ。わたしには感情が理解できないので、あなたの力にはなれない。けれど、そこにいるであろう古泉一樹にならばきっとそれは可能。彼はあなたの力になる。彼を信じて』
 呪文を唱えるように、メールの文章を一言一句違わず読み上げてから、彼はやおらこちらを振り向いた。

 彼の目に光が。今にも消えそうなほど小さな、でも確かに存在する力強い光。それは希望という名前を持つ。彼女が彼に与えた希望は、僕だ。

 そうか、僕をここにやったのは、彼女だったのか。

 しかし彼女のメールはあまりに曖昧で、一体僕が何をすればいいのかまったく分からない。彼女の心を変えることが唯一の手段だとは、最初から僕が言っていたじゃないか。僕にならば可能な解決法、それこそが知りたいというのに。
 愕然となる僕に向かって、彼は掠れた声ながらはっきりと、言い放つ。
「俺はお前を信じる」
「……でも、僕にはどうしたらいいのか、皆目見当もつかない」
「俺にだって分かるもんか。しかし長門がこう書いてあるんだ。きっとお前にしかハルヒを動かすことができないんだろう。それなら古泉、俺はお前を信じるしかないさ」
 彼はそう言って、僕に微かな力強さをもった目を向けた。
 不安がない訳がない。しかし彼は信じることしかできない。僕しか、頼れるものがいないのだ。自分の存在そのものすら、他人の手に委ねるしか今は、できないというのに。
 僕は途端にそれが、恐ろしくてたまらなくなったのだ。
「……でももし、あなたを助けることができなかったら……」
「そうだな、無理は言わない。俺が万一こっから出れないまま消されちまっても、それは仕方ないことだからな。お前のせいなんかじゃない。だから、思い詰めない程度に、適当にやってくれ」
「そんな!」
 僕は思わず彼の両肩を掴んだ。我ながら余裕のない態度だと思う。表情だってきっとひどいものだろう。
「そんな風に言わないでください。仕方ないなどと思える訳ないじゃないですか。……僕はあなたがいなくなることが、怖くて仕方がないんです」
「なんでだよ。何が怖いっていうんだ。俺がハルヒの鍵だからか? 俺がいなくなったら、ハルヒがこの世界をどうにかしちまうかもしれないからか? だけどハルヒが俺を消したいと思ってんならそんなの杞憂だろう。何も変わりゃしないさ。俺がいてもいなくてもね」
「どうして、」
 どうして彼は今にも泣きそうな顔でそんなことを言うのだ。諦めきれないって目をしながら、仕方がないなんて言うのだ。
 どうしてこんな段になって、僕に縋るのをやめようとする?
「……だってお前に俺を背負い込む責任はない。これ以上、迷惑を掛けられない。なあ、お前気づいてたか? ここ数日、会う度やつれていってるんだぜ。あっちの閉鎖空間の処理だって忙しいんだろう。それなのにこっちにも頻繁に顔を出して……俺が変なこと言ったからだよな。俺が会いに来てくれだとか、言ったから」
「それは違います。僕は自分の意思で」
「違わないさ。……俺は、お前をここに引き留めたかったんだ」
 彼は一瞬言い淀んで、それからバツが悪そうに目を逸らした。
 違う。それは彼が心苦しく思うことではない。彼がそう思うように、誘導したのは僕だ。そう言いたいのに、言葉がついて出てこない。僕の表情をどう読み取ったのか、彼は自嘲的な笑みをたたえて続ける。
「だから水を飲まずにいたし、無茶苦茶なことをやったりした。そうしたら心配するだろう? 俺を心配して、もっとこっちにいてくれんじゃないかと思って」
「だからそれは僕が! 僕のせいですよ……あなたが望んだのではない。僕が、望んだから。あなたが僕だけを見ている今の状況を」
「何言ってる。そんな訳ない。俺はさ、おかしいんだよ。もうずっと前から。お前はそれに当てられただけだ」
 彼こそ何を言っているんだ。まるで、僕が彼に対して考えていたことそのままを、彼は僕に抱いていると言う。
 それこそ勘違いだ。この妙な空間に当てられているのは、彼のほうではないのか。
 だってほら、彼がこんな風に僕に向けて儚い笑みを浮かべるなんて、絶対にあり得ない。喜びも悲しみも全部を受け入れる、菩薩みたいなアルカイックスマイルなんて、この人には似合わないのに。
 でもそんな表情のまま、彼は薄く口を開く。
「古泉……もうここへは来るな」
 その時感じたのは、脳天を殴られたような衝撃だった。きっぱりとした否定の言葉。それを口にした彼は、嘘みたいな優しい表情で僕を見ている。その目は曖昧なようでいて、その癖、反論の余地など微塵も与えようとはしない。
「こんな所に二人きりでいたら駄目だ。俺たちきっと二人して駄目になっちまう」
「そんな、こと、できる訳が」
「だからお前が助けてくれるんだろ。待ってるさ。ここがいつまで存在できるかは分からないが、お前がここから俺を出してくれるまで、ずっと待ってるよ」
 そう言って、彼は僕の頬に手を伸ばし、そっと撫でた。その指先が温かさを取り戻している。それで分かった。彼は冷静だ。きっと僕よりもずっと。
 僕には、頷くしかできなかった。
「待ってるからな」
 もう一度、そう彼は繰り返した。
 ああやっぱり似合わない、彼には。そんな顔をしないでくれ。いつだって鹿爪らしい顔で僕や、涼宮さんを眺めていたじゃないか。もっと光のたくさんある、眩しい世界で。
 彼の眉間の皺が恋しい。不機嫌そうな声が、たまに浮かべる悪戯を思いついたような笑みが、恋しくてたまらない。
 僕は怒りとも欲望ともつかない衝動で彼に口づけた。貪るみたいに無茶苦茶に。歯があたるのも涎がこぼれるのもお構いなしで、その行為を僕は何度も繰り返した。お互い、もう駄目だ、と思うまで。
 そうしてやっと、苦しげに息を吸い込む彼が、密やかに眉をひそめ、この野郎と呟いたから、僕はほんとうに嬉しくて、胸の中が熱くなるのを止められなかった。もう我慢なんて必要なかった。
 ぼろぼろと、僕は温かな雫をこぼし続けた。言葉は言葉になる前に空気にするりと蕩けてゆく。だから静かな吐息だけが、この灰色の空間を埋めるのだ。何も言わない。僕も彼も。
 泣きながらもう一度、僕は彼にキスをした。目を閉じて、彼の体温と感触を覚えようとする。
 目を開ければ、そこは、やはり暗かった。びりびりと、葉摺れの音や、遠くを走る車の音、硬質な冷たい空気の音が耳をつんざく。それは耳鳴りみたいに、ずっと鼓膜の奥のほうにこびりついて、なかなか取れることはなかった。
 なんとなく僕には分かっていた。もう幾ら望んだって、あの場所には戻れないのだと。
 頬に残った涙の跡は、ぱりぱりに乾いて引きつっているような気がした。

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