エンチアン――ローデリヒの国で特別大切にされている花の名を冠した音楽隊は、音楽科の有志によって構成され、学園の行事毎に、校歌を演奏したり、行進曲を演奏したり――つまり学内における音楽の何でも屋なのだという。行事のないときには、こうして課題曲を決めて練習をする。そうして年に一度、学校祭で成果を披露する。それがエンチアン楽隊の活動のすべてだ。ときどき近くの教会に出向いて、聖歌隊に転身することもある、らしい。ローデリヒはいい顔をしないが、音楽に関することならなんでもやる、が彼らの標榜するところであり、つまるところ彼らが学園内で好き勝手に活動を許可されている、唯一の理由でもある。南校舎の音楽室を独占していられるのも、学校から貸し出される楽器を制限なく使用できるのも、すべては学園のために働く彼らだからこそ得られる特権なのだ。
そこになぜ美術科のフェリシアーノが混じっているかといえば、彼こそが体のよい便利屋として、文字通りなんでもさせられているのだった。フェリシアーノはじっさい、楽器に限っていえば、なんでもできる。ピアノも弦も管も、一通りこなせてしまえるのだ。それゆえ穴埋め要員として在籍しているのだった。彼の弦の腕はルートヴィッヒ自身よく知っている。大切なヴァイオリンの演奏許可を与えるくらいに、ルートヴィッヒはフェリシアーノを認めていた。
六月の学校祭に向けて、楽隊は早くも発表曲の練習を開始していた。オリジナルの楽曲を演るのは今回が初めてなのだそうだ。
「『人形の独白、または夢想家の夢による』――なんだこれは、ほんとうにこの曲のタイトルか? えらく変わっているな」
「まったく不本意ですがしかたがないのです」
楽譜に声楽のパートが存在しているからして、オペレッタには違いない。楽隊には声楽専攻のマドンナ、エリザベータがいるし、彼女が今回のプリマを務めるのであろうと、ルートヴィッヒは予想していた。エリザベータがローデリヒの許嫁であることを、学内で知らぬ者はいない。しかしローデリヒが身内びいきで大事なソリストを選出するはずはなく、彼女の歌唱の実力もまた、周知のことであった。
フェリシアーノはといえば、この楽曲ではさっき持ってきたトライアングルぐらいしか、担当パートを持っていない。
「俺、この次の曲で歌うからね。独唱だよ」
「歌もやるのか」
ルートヴィッヒは彼が時折披露しているふにゃふにゃとした鼻唄を思い出し、はてと首を傾げた。フェリシアーノが膨れっ面を作る。
「あ、ルッツ、なんだよその目。俺ちゃんと歌えるよ? ちゃんと声楽だって習ったことあるんだから」
「ほう、それは楽しみだ」
「ふんだ、ほんとにほんとだからね、聴いて驚くなよっ」
はいはい、と適当にいなしながら、ルートヴィッヒは自分のパート、ファーストヴァイオリンの譜を目でなぞり始めた。
練習は滞りなく進み、半月もする頃には、一つ目の曲が完成をみた。
主題を奏でるエリザベータの歌声には、いつもその場にいる全員が感嘆の溜息を漏らす。素晴らしいとしか言いようがなかった。伸びやかで存在感のあるソプラノは、楽曲のある種不可解な歌詞に妙な説得力をもたせた。ロ短調の静かなイントロダクションの一幕から、一気に物語の渦中へと引き込むための導火線。その役割を担うに、まさにこれ以上の適役はなかった。
「この歌劇は完成しているのか。フェリシアーノが歌うという二番があるくらいだから、物語は最後まで存在しているのだろう」
「ええ、脚本はすべて作者から受け取っています。ですが私はただ依頼されてこの曲を作っているだけですので。それからこれはオペラではなくジングシュピールです」
ひどい内容ですよ、まったく。ただの大衆劇を作らされるのがよほど不本意であるのか、そう零したローデリヒは忌々しげに眉根を寄せていた。音楽家としての彼の自尊心の高さは尊敬に値する。ルートヴィッヒなど、頼まれればなんの疑問も持たず引き受けしまうから、やはり芸術家には向いていないのではないかと思う。自身に対しての拘りが薄いし、独創性もない。シベリウスの奔放さよりも、バッハの規律めいた作風が性にあう。現代音楽にも明るくなく、演奏はよく前時代的だと評された。正しいが、つまらない、と。
(フェリシアーノは、ローデリヒ側の人間だな)
次の練習曲、つまり自分が主役をはる二番の楽譜を夢中でさらう、小さな頭が小刻みに揺れている。いつも自由で、それでいて間違いのない者。兄とはまた違った、ルートヴィッヒの持たぬものをもつ人物。
「さあ、先に進みますよ、立ち止まっている暇はありません。学校祭までは半年ほどしか残っていないのですからね」
パン、と大きく手を鳴らし、ローデリヒが立ち上がる。途端ざわめいていた室内は、一気に静まり返った。フェリシアーノがひとり、飛び跳ねながら「ラジャ!」と叫んでローデリヒのピアノの前に立つ。
「ローデリヒさんねえねえ声出し! 声出ししようよ、俺早く歌いたいなあ、早くルッツをぎゃふんと言わせたいよ」
落ち着きなく動き回る手には、一幕第二番『夢想家のためのアリア』の複製譜面が握り締められている。皺だらけになったそれを険しい顔で一瞥し、ローデリヒは諦めたように嘆息した。
「それでは一度通して歌ってご覧なさい。それから楽譜は丁寧に扱いなさい、このお馬鹿さんが」
文句を一通り述べると、ローデリヒは満足したのか、ピアノの前ですっと表情を変えた。第一音は迫力ある高音のフォルテシモ。場の空気に突如緊張が走る。そのなかでフェリシアーノだけが、普段通りの表情で小さく息を吸い込み、そうしてそれは始まった。
聴いて驚くどころではなかった。開いた口が塞がらないまま、指の先まで痺れたように動けなかった。
まるで楽器のように伸び上がる、テノールからカウンターテナーへと、そしてあまりにも自然なファルセット。語りかけるようでもあり、ただひとりごちているようでもある、それはなんとも不思議な歌声であった。
しかし何よりもルートヴィッヒを驚かせたのは、
(俺は、知っている、この歌声は)
あのとき、裏庭から聞こえてきたフォーレのレクイエム。あの歌声の持ち主と、フェリシアーノは同一人物であったのだ。
――なんということだ、信じられない!
ルートヴィッヒは叫び声をあげたくなるのを必死で堪えた。その混乱などつゆ知らず、ローデリヒのピアノに絡むフェリシアーノの声はますます強さと激しさを増してゆく。いつもすました顔で汗一つかかないローデリヒが、今にも立ち上がりそうになりながら鍵盤を叩いているというのは、たいそう珍しい光景だった。
ほんの二分程度の小曲を聴き終える頃には、その場にいた全員がフェリシアーノの歌声の虜となっていた。うっとりともれる溜息が方々から聞こえてくる。唯一ルートヴィッヒだけが、身動きひとつとらず静観していた。
歌い終えたフェリシアーノは呼吸を整えたのち、目をきらきらとさせながらルートヴィッヒのほうを振り返った。はたして彼の願望通り、ルートヴィッヒは驚愕の表情を浮かべていた。それをみとめたフェリシアーノはステップを踏みながら近づき、「えっへん」とわざわざ口に出しながら胸を反らす。
「どうだ、ルッツ。びっくりしただろー俺意外とすごいでしょ!」
期待に満ちた目が褒めて褒めてと促してくるが、ルートヴィッヒはそれどころではなかった。ぐちゃぐちゃになっている頭のなかを一つ一つ整理する。拾い集めて、分類して、仕舞い込む、部屋を整頓するみたいに。
この学園に来た初日の出来事。寄宿舎の部屋を片づけている途中、窓の外から聞こえてきた歌声に、興味を示したルートヴィッヒがヴァイオリンをあわせて弾いたのだった。信じられないほどに楽しく、ただただ興奮を覚えた。しかし彼は結局、壁の向こう側、つまり部屋に面した裏庭にいたはずの声の主に、会うことが叶わなかった。しかしその場所で、代わりに見つけた花冠――声の主が誰かのために拵えたものだ、それを彼は大切に持ち帰り、花の世話が得意だというフランシスに預けた。
これがふた月ほど前の話。あのあと、フェリシアーノは開けっ放しにしていたルートヴィッヒのヴァイオリンケースを見ている。それどころかじっさいに楽器に触れてもいた。つまり、フェリシアーノは十中八九、自分の歌にあわせて演奏していたのがルームメイトだと、気づいていたはずなのだ。
(どうしてなにも言わないんだ?)
あのときヴァイオリンを一緒に演奏してたのはルッツでしょ。そうひとこと訊いてくれさえすば、自分はただ頷くだけでよいのだろうに。あのときは楽しかったね、また演ろうね、きっとフェリシアーノはそう言って、それで話は終わりだったろう。それを、どうして。隠す必要などないことではないか。もしくは忘れてしまったのか。たしかにあの直後ちょっとしたごたごたがあったものだから、改めて訊ねる機会を逃しているだけなのかもしれない。いや、それともまさか気づいていないのか? あり得る。フェリシアーノのことだ、過ぎた些事は頭からぽろぽろとこぼれてゆくのかもしれない。
それでも、ルートヴィッヒの胸はちいさな痛みを覚えた。なんてことはない痛みだが、ずっとそこにあり続ける予感がした。